創建まもなくから幾多の戦火にみまわれ、幾度となく灰燼に帰しまた再建されてきた相国寺の歴史からすると、創建当初から伝来している絵画のないことはむ しろ当然である。例えば『蔭凉軒日録(いんりょうけんにちろく)』に記載の美術作品がすべて現存していたらなどという感傷は、歴史の厳しさを知らない夢想 にすぎない。また、家康によって鹿苑僧録職(ろくおんそうろくしょく)が廃された結果、政治、外交の表舞台からの撤退と種々の特権の放棄を余儀なくされ、 近世のあらたな寺社制度の中に組み込まれて以降の相国寺においては、五山文化華やかなりし頃を彷彿とさせる什物の収集もままならなかったに違いない。
しかしながら、文正(ぶんせい)筆の『鳴鶴図』など、文献史料と現存作品の照応によって、応仁の乱直後の復興期における相伝の様子が知られる作品もわず かながらに存在する。また近世以降の日本の絵画には、長谷川等伯(とうはく)や狩野探幽(かのうたんゆう)、そして伊藤若冲など、日本の絵画史において高く評価される作品も数多く伝来している。『禅宗絵画と水墨画』においてとりあげた禅宗絵画と際立った対比を見せるこうした近世絵画は、宗教空間の世俗化を象徴していると同時に、相国寺の寺宝に多彩な表情を与えている。そして歴代住持がそうした什物の充実に努力してきたことも、また雄弁に物語っているのである。

 

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