位 置

 銀閣寺は金閣寺とともに相国寺の山外塔頭のひとつで、正式には慈照寺といい、山号を東山(トウザン)といいます。京都の東に連なる山々は東山(ヒガシヤマ)と呼ばれ、如意が岳(大文字山)を中心になだらかに続いています。この山なみは古来女性のやさしさにたとえられ、数々の歌にもうたわれ、人々に親しまれてきました。なかでも大文字山と呼ばれる如意ヶ岳は、お盆の8月16日の夜に点火される送り火で知られています。銀閣寺はこの大文字山の麓にあります。門前には哲学者西田幾多郎が思索の場として散策した哲学の道があり、桜や蛍の名所として人々の散策路になっています。

 このあたりは古くから歴史の中に現れたところで、白川の清流が流れており、流域には早くから人が住みつき、縄文遺跡や、奈良朝の北白川廃寺跡も発見されています。またこの一帯には、東に法然院、霊鑑寺、南に黒谷金戒光明寺、真如堂など古くから寺院が営まれてきました。平安時代には、北山と同じく、天皇の御陵、火葬場があり、菩提を供養する寺院が多くありました。平安時代の中期に浄土寺が創建され、この浄土寺跡に東山殿が造営され後に慈照寺となるのです。

東山殿以前

 浄土寺は天台の寺院で平安時代円珍が住して浄土寺といい、寛仁の頃に天台座主第25世明求(醍醐天皇の孫)が堂宇を再興して住し、浄土寺座主と称したといわれます。

 平安時代の終わりごろから寺院の門閥支配が確立して、延暦寺も天台座主は特定の末寺によって独占的に就任するようになります。この特定の分院を門跡(一門の法跡)と呼んでいます。

 延暦寺の門跡寺院、金剛寿院の主、天台座主第73世円基が承久年中(1219-1222)当時へ住することになり、浄土寺は金剛寿院の配下となります。門主は浄土寺に常住するようになり、浄土寺門跡の住房が営まれました。

 時代は下って足利時代に至り、第6代将軍義教の第3子義躬が浄土寺において出家し、義尋と号して門主となります。しかし後に兄義政に呼び戻され、義視と称して将軍の後継者となりました。やがてこれがもとで応仁の乱が起こり、浄土寺は跡形もなく焼失してしまうのです。その跡地に兄義政によって東山山荘が営まれることになるのです。

将軍義政1

 義政は永享8年(1436)足利六代将軍義教を父に、贈左大臣日野重光の女重子を母として生まれました。後見として母重子の従弟、烏丸資任(スケトウ)があたり、養育係に幕府の奉行衆大館氏一族の才女といわれた、御今(オイマ)が選ばれました。

 父義教は生来の激しい性格から、彼の権威にそむくものは次々と処罰したので、世間では「万人畏怖の人」と恐れられ「悪将軍」と呼ばれました。

 義教は皇室を崇敬し、綱紀を粛正して強臣を制圧し、反抗的であった管領持氏を滅ぼし、幕府の権威を伸ばしたのですが、余りに峻厳に過ぎたため多くの反感を招き、ついに嘉吉元年(1441)赤松満祐に殺されます。これは嘉吉の乱いい、当時の風潮であった下克上の現われでもあったのです。

将軍義政2

 嗣子義勝が8歳で将軍職を嗣いだのですが、嘉吉3年10才で夭逝したため、次に選ばれたのが後の義政でした。この時8歳であった義政を補佐したのは管領畠山持国でした。しかしかつての義満を支えた力量のある人たちと比べると、人格、力量ともに劣っていました。やがて管領になった細川勝元もこの時十六歳であり、山積みする難問題を解決するには余りにも若すぎました。

 また義満のように義政にも五山僧たちとの交流があったのですが、厳しい禅の修業のためというよりは、芸術、文学、といった文化的交流でした。

 この頃義政を取り巻く近臣たちはそれぞれ私的な利害関係にはしり、私腹を肥やすものがふえ、母重子や、養父伊勢貞親も政治に干渉して権勢を振るうようになり、混乱に陥っていきます。

 荘園領主たちは課税のしわよせを農民たちに押しつけたため、農民の生活は逼迫を極め、やがて土一揆が頻発するようになります。義政の打ち出したさまざまな政策も効果はあがりませんでした。当時、幕府の財政破綻の建て直しと、社会的混乱を正すことは至難のことであったのです。

 このような情勢の中で義政は政治から身を引くことを考えました。義政は康正元年(1455)日野家から16歳の富子を正室に迎えましたが、富子には  男子がなかったので、寛政5年(1464)浄土寺に住して浄土寺殿と呼ばれていた弟の義尋を呼び戻して還俗させ、義視と名乗らせ将軍の後継者としました。

 ところが翌年、富子は男子を産むことになります。義熙、後の義尚です。富子はこの義尚を将軍につかせるべく、山名持豊に頼り、義視を支持する細川勝元と積年の私憤も絡んで武力衝突することになります。これが花の都、京都を焦土と化した応仁の乱の始まりでした。この戦いによって相国寺をはじめ多くの寺院が焼失し、義視が住した浄土寺も焼け落ちてしまったのです。

銀閣寺と義政

 応仁の乱(1467-1477)の後、義政はかつて弟義視が住し、戦乱で焼けたままになっていた浄土寺跡地を山荘造営地として選考し、文明14年(1482)に東山山荘造営に着手しました。翌年に常御所(ツネノゴショ)が完成すると、政務を嗣子義尚に譲り、義政はこの地に移りました。そして文明17年(1485)禅室として西指庵が完成すると落髪して喜山道慶と称して出家したのです。翌、文明18年(1486)には自身の持仏堂として東求堂ができています。長享元年(1487)には東山殿会所、泉殿(弄清亭)が完成し、長享3年(1489)3月には銀閣(正式名称は観音殿)の立柱上棟が行われました。その年の10月に義政は病に倒れ翌年1月7日銀閣の完成を見ることなくこの世を去ったのです。

 義政が想いのままに仕上げていった東山山荘の造営には、常に相談相手となり、協力をした相国寺の禅僧たちがいました。瑞渓周鳳、雲草一慶、心田清播、竺雲等連など、いずれも名だたる五山文学僧たちで、晩年には亀泉集証、横川景三などがいました。

 東山殿は特に横川景三を相談相手に義政が好んだ西芳寺(苔寺)を手本に造られたといわれます。しかし観音殿は祖父義満の残した舎利殿(金閣)にならって建てたもので、義政は文明19年祖父の造った舎利殿を見直すため、不意に鹿苑寺を訪れているのです。

 また東山殿の庭園は義政の築造庭園の中でも現在残っている唯一の遺構です。このように優れた趣味に生きた義政の側近には、相国寺の禅僧とともに、実際の工事にたずさわった優秀な作庭家たちがいました。義政がもっとも信頼をして工事を任せたものに河原者の善阿弥がいました。善阿弥は義政の命により蔭涼軒の庭、妙蓮寺の庭園、室町上御所などを担当したことが知られています。

東山文化

 足利将軍は初代尊氏以来、代々美術品の蒐集に熱心で、特に義満は対明貿易を積極的に促進し、多くの名品を請来しました。また日本にもたらされた多くの名画や名器、墨蹟などは、平安から室町にかけて中国へ渡った禅僧たちによって持ち帰られたもので、全国の大禅刹に収蔵されていましたが、これらの多くは歴代の将軍によって献上させられ、将軍家のものとなりました。これらの名宝が集められて東山殿の宝庫に収蔵され、義政は同朋衆の一人能阿弥とその子芸阿弥に命じてこの東山御物の選定を試みました。義政はこうした東山御物の制定と同時に、東山時代に書院造りの建物が成立するに伴い、書院飾りの法式も能阿弥に命じて作らせ、相阿弥にいたって完成されています。また能阿弥は茶の湯の作法も発展させ、村田珠光について学び、珠光を義政に推奨したのです。

大文字と銀閣寺

 長享3年近江の陣中で24歳の義尚はこの世を去ります。義政は悲しみ、その年の新盆を迎えるにあたり、義尚の菩提を弔うため、横川景三の進言によって如意ヶ岳の山面に白布をもって「大」の字を形どるよう近臣芳賀掃部頭に命じます。横川景三は東求堂から山面を望み、字形を定めて火床を掘らせ、お盆の16日に松割木に一斉に点火して義尚の精霊を送ったのです。これが現在毎年8月16日、京の夜空を焦がして燃える「大文字の送り火」のはじまりです。

開 創

 義政の死後(1490)、遺命により東山山荘を禅寺に改めて夢窓国師を勧請開山とし、寺号を義政の院号慈照院殿に因み当初慈照院と称しましたが、翌年慈照寺と改名されました。

 当寺第1世は宝処周財、第2世維山周嘉は義視の第2子将軍義稙の弟で当時まだ15歳でした。その後歴代の住職は戦国時代を乗り越え、観音殿、東求堂などをまもりぬいたのです。

荒廃と復興

 室町幕府の末期、天文19年(1550)三好長慶と15代将軍義昭との戦いが慈照寺の周辺で展開され、堂宇は銀閣と東求堂とを残し悉く焼失しました。また織田信長が義昭のため二条城を築いた際、慈照寺庭園の名石九山八海石を引き抜くなど、室町幕府の衰退と共に慈照寺も荒廃していったのです。江戸時代の初期慶長20年(1615)宮城丹波守豊盛による大改修がなされ、今の銀閣寺の現況はこの慶長の改修によるところが大きいのです。銀閣寺は将軍の山荘として造営されたのですが、改修に当たって、庭園や建築は、禅寺として、禅宗風の趣を取り入れ修復がなされたと思われます。

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