位 置
京都市の西北端、正しくは京都市北区金閣寺町に、この寺はあります。西に衣笠山、背後に左大文字山をひかえた景勝の地で、京都市の北部に連なるなだらかな山なみは、北山(キタヤマ)の名で一般に親しまれていますが、この北山につながる金閣寺の周辺一帯だけを特に北山(ホクザン)と呼ぶことがあります。北山の名称は、遠く平安時代の初期まで遡りますが、当時もやはり大小二つの地域の意味があったようです。平安時代の中期以降、この地域には数多くの墓所が作られ、今も円融天皇の御陵をはじめ火葬所、陵墓、塚などが数多く残っています。現在、金閣寺の西に接する土地の字名を氷室(ヒムロ)と言いますが、これは昔、朝廷がこの地に氷の室(ムロ)を経営したためと考えられています。寒い冬の間に作られた氷を、この地に接する左大文字山などの山腹深く掘った穴に保存していたのです。その他に、この地域は、古くから寺院建立、狩猟などに適した土地と考えられていました。ただ金閣寺の寺域だけは、主として田や畠であったようで、所有主の神紙官伯家より西園寺公経(サイオンジキンツネ)の手に移り、ここに金閣寺の始まり西園寺と北山第(山荘)がはじめて築かれました。
名 称
金閣寺は舎利殿(シャリデン)金閣が余りにも有名なため、通称金閣寺とよばれていますが、正しくは鹿苑寺(ロクオンジ)といい、足利三代将軍義満が造営した山荘、北山殿を母胎に成り立っています。宗派は、臨済宗相国寺派に属します。鹿苑の名は、お釈迦さまが初めて説法されたところの地名鹿野苑に因んだ開基(創設者)足利義満の法号鹿苑院殿によるものです。
開 山
金閣寺は銀閣寺と共に多くの拝観者に親しまれている禅寺ですが、両寺院共に臨済宗相国寺派の山外塔頭寺院であり、本山相国寺と共にいずれも同じ夢窓国師を追請開山としています。現在は本山相国寺住職が両寺の住職をかねており、塔頭寺院の住職が両寺の運営にあたっています。
義満以前
北山という地名は平安時代に遡るといわれますが、平安時代の北山には霊厳寺、興隆寺、法音寺等の寺院が建てられていました。また天皇の陵墓をはじめ多くの塚があり、火葬が行われたころでもありました。この土地はやがて鎌倉時代に権勢を誇った西園寺家のものとなり、公経によって「北山第」という豪壮な山荘が営まれました。しかし鎌倉幕府が倒されると共に西園寺家もその権勢の座から遠ざかり、西園寺家の衰退と共に北山第も荒廃していったのです。この北山第を足利義満が譲り受け北山殿を造営したのです。
西園寺家
西園寺家はもともと藤原氏北家の出であり、最初は余り注目されるような家柄ではありませんでした。それが西園寺公経(サイオンジキンツネ)の代になると、一躍朝廷の中心人物となり、その権勢は当時の摂関家のそれを凌ぐほどになりました。この時代(恐らく1220年頃と思われます)に、今の金閣寺の敷地に着目した公経は、氏寺として西園寺の建立を思い立ち、自らの所領尾張国松枝庄とこの地の交換を、所有者 神祇官伯家に申し入れ、その話を実現したのです。当時の造営に関する史料は何一つ残っていないので、模様については知ることはできませんが、ただ元仁元年(1224年)に盛大な落慶供養を行い、翌年藤原定家が初めて西園寺・北山第を見たことなどが分かっています。定家によれば、その趣は比類のない斬新なもので、中でも高さ45尺の滝と碧瑠璃を湛えたように美しい池には一驚したといいます。藤原道長の栄華を象徴した法成寺を念頭に置き、さらにそれを凌ごうとした公経の西園寺・北山第は、造営当時、地上の仙境(センキョウ)、此岸(シガン)の浄土ともいわれましたが、時代の推移とともに西園寺家は惜しくも衰頽し、同時に西園寺・北山第は荒廃の一途を辿っていきました。(当時の遺構としては、僅かに池だけが残っています。)
義満の時代
義満は室町に室町第を造営し幕府を移しました。そこは花の御所と呼ばれ、政治の中心地となります。そして夢窓国師の弟子であった春屋妙葩禅師について参禅弁道にはげみ一寺の建立を思い立ち、幕府の隣に相国寺を建てたのです。この相国寺を中心に五山文学が生まれ文化の中心地としても栄えました。しかし義満はこれにも満足せず、当時荒廃していた北山第の大改修をはじめ、北山殿を造営したのです。その中の舎利殿が金閣で、一層に釈迦三尊が安置され、二層目は観音殿、三層に仏舎利がおさめられました。その後それまで室町殿で行われていた行事などは北山殿で行なわれるようになり、その機能が移されました。対明貿易をはじめた義満は明の勅使を北山殿で迎えています。こうして得た中国のさまざまな文化が集められ、北山文化を築いたのです。
義満の死後北山殿は将軍の邸としての資格を失いますが、義満の遺言により禅寺となり、義満の法号である鹿苑院殿より鹿苑寺となります。初期の鹿苑寺についてはあまり正確にはわかっていません。
義満と金閣
足利三代将軍義満は、応永元年(1394年)将軍職を僅か9歳の義持に譲り、翌年自らも38歳の若さで出家しました。これは義満自身9歳の年に父義詮の死に遭い、数々の苦難を経験しましたが南北両朝の合一にも成功し、世の中に太平が回復すると同時に、公的生活から離れてもっと自由な行動を望んだものと思われます。荒廃していた西園寺家の西園寺・北山第を譲り受けた義満は、応永4年(1397年)ここに山荘北山殿を造営すべく工事を開始しました。庭園、建築共に可能な限りの粋をつくしましたが、中でもとくに趣向をこらしたのが、舎利殿つまり金閣でした。応永15年(1408年)後小松(ごこまつ)天皇の行幸を仰いで、義満は盛大な宴を開きましたが、これは北山行幸と呼ばれ、今に語りつがれています。義満は51歳でこの世を去るまでここに住んでいました。義満の死後義持は夢窓国師を勧請して開祖とし、初めて鹿苑寺と名づけられました。
義満以後
将軍家の庇護のもとにあった多くの禅院は、将軍家の権威の衰退と共に経済的にも困難に陥っていきます。そして応仁の乱の勃発によって、本山相国寺をはじめ多くの禅寺が焼討にあい、鹿苑寺もその被害にあいましたが、金閣、石不動堂、護摩堂などは焼失を免れました。その後足利十五代の歴史は終わりをつげ、安土桃山の激変期を経て、徳川家康によって平安の時代となります。
江戸時代
徳川家康の命により鹿苑寺住職となったのが西笑承兌でした。西笑和尚は豊臣秀吉、徳川家康の二人に政治顧問として重用され「黒衣の宰相」といわれた人です。西笑承兌によって鹿苑寺はその経済的基盤を固め、以後、西笑の法系によって受け継がれてきました。
明治時代
明治時代の鹿苑寺は庇護者をなくし、その経済的基盤を失いました。また廃仏毀釈の法難などさまざまの困難を経験しますが、歴代の住職の努力によってそれをを乗り越え、維持されてきました。拝観者を最初にうけ入れたのは、明治27年でした。大阪で「共進会」(今の博覧会)が開かれた際に当時の住職であった貫宗長老によってはじめられました。
拝 観
仏教寺院の庭園はキリスト教における庭園とは異なり、仏教的世界観に裏付けられており、堂塔、伽藍とともに庭園は仏教的世界観をあらわしています。寺院を訪れその環境に身をおくことで、法話や説教にもまして説得力をもって仏教的世界に触れていただくことが出来ます。
戦後の日本経済の飛躍的な発展と共に多くの拝観者が金閣寺を訪れるようになりました。拝観によって禅や禅文化を世界中の多くの人に知ってもらう機会を得、その価値を認められてきました。金閣寺の拝観はそれぞれの時代に金閣寺にかかわった人々の努力と長い歴史の実績によって、独自の布教の手段として定着しています。