位 置

 京都駅の前にのび、京都の真中を縦貫する大通り、烏丸通りを北上すると、ほぼ京都の中心あたりに京都御所があります。京都御所の北の門、今出川御門の前の通りを北上すると相国寺があります。

 この地はもと、伝教大師開創の出雲寺、源空上人の神宮寺(後の百万遍知恩寺)、安聖寺の旧跡にまたがっています。創立当時の相国寺は南は室町一条あたりに総門があったといわれ、北は上御霊神社の森、東は寺町、西は大宮通にわたり、約144万坪の寺域がありました。現在でも東門前には「塔之段」という町名が残っており、かつての七層宝塔の旧跡といわれています。「毘沙門町」は毘沙門堂址であると言われています。

 現在は相国寺の南には同志社大学、北には京都産業大学附属中学・高校がありますが、これら学校の敷地の大部分は天明の大火以後復興できなかった寺院や、明治維新後廃合した寺院の址地です。幕末に諸堂が再建され旧観を復するにいたったのですが、現在の寺域は約4万坪あります。

 境内には本山相国寺をはじめ、13の塔頭寺院があり、山外塔頭に鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)、真如寺があります。また全国に100カ寺の末寺を擁しています。

将軍足利義満

 義満は延文3年(1358)足利2代将軍義詮(ヨシアキラ)を父に、石清水八幡宮検校通清の娘良子を母として生まれ、幼名を春王と呼ばれました。

 南北両朝の抗争が相次ぐ康安元年、義満3歳の時、楠正儀、細川清氏らに大挙して京都を攻められ、将軍義詮は近江へ逃れました。義満は従者に抱かれ建仁寺の蘭洲良芳のもとに逃れましたが、良芳和尚は義満に僧衣をかぶせて5日間かくまい、ひそかに播州白旗城の赤松則祐のもとに送り届けました。そして翌年義満は無事京都に帰還しています。

 貞治6年(1367)義満は天龍寺において時の住持春屋妙葩より受衣しています。そしてこの春屋妙葩とその弟弟子義堂周信は義満にとって終生の変わらぬ精神的支えとなったのです。

 この年父義詮は病没し、翌年義満は11歳で将軍職を継ぎますが、父の遺言により、管領細川頼之が補佐役として幼君を助け、義満を立派な将軍に育て上げるとともに、幕府の権威の向上に努めました。

 11才で将軍職を継いだ義満は細川頼之の補佐を受けながら、地方の有力な守護大名を制御して将軍としての地位を確立していきました。そして応安4年(1371)室町北小路に造営中の室町第を完成させ、ここに幕府を移します。そこは大きな池を掘って鴨川の水を引き、庭には四季の花を植え、それらの花が爛漫と咲き乱れたといいます。その様を見て人々は「花の御所」と呼びました。

 この時まだ南北両朝の分裂は続いており、細川頼之らの努力でようやく統一の兆しが見え始めていた頃でもありました。

寺 号

 義満は将軍としての地位を固めるとともに、一方その精神的支柱として師と仰ぐ春屋妙葩について参禅弁道に励みました。そして自らの禅的賛仰の発現として一寺の建立を思い立ったのです。

 永徳2年(1382)9月、嵯峨の三会院において夢窓国師の法要が営まれた際、参詣した義満は、春屋妙葩、義堂周信を招きよせ「一寺を建立して道心堅固な僧侶50名ないし100名を止住させ、自らもまた何時となく道服を着けて寺に入り、皆とともに参禅修行をしたいのだがどうか」と相談しています。二人の賛意を得て、同年10月再び2人を招き天皇の勅許を仰ぐ意向と寺号について相談をしています。春屋は「あなたはいま左大臣の位にいます。左大臣は中国では相国と言いますゆえ、相国寺と名づけてはいかがか」と答えています。また義堂周信は「中国にも大相国寺という寺があり大いに結構、天皇に勅許をいただくなら、承天相国寺としてはどうか」と助言しています。義満は二人に励まされ大伽藍の創立を決意したのです。

 

※ 中国の相国寺は現在も河南省開封市にあり姉妹寺院として交流しています。

義満と相国寺

 義満は当時、室町幕府「花の御所」と呼ばれた室町第(現在の室町通り上立売あたり)にいましたが、新寺はその近くに建てるべく、幕府の東隣にあたる安聖寺付近と定め、家屋の移転がはじめられました。当時は御所に仕える公家たちの屋敷が立ち並んでいたのですが貴賎によらずみな他所へ移され、そのありさまは、まさに平家の福原遷都にもにた、強引なものであったようです。

 永徳2年(1382)10月には早くも法堂、仏殿の立柱が行われ春屋妙葩が最高責任者として指揮をとり、義満も工事の視察をしています。また伊予の河野族は材木を搬し、天下の諸侯に課して工役に服せしめています。

 同年12月春屋妙葩が住持として入寺、至徳元年(1384)大仏殿立柱、この時寺号を万年山相国承天禅寺と定めています。至徳3年(1386)には三門の立柱上棟を行っていますが、この時、春屋妙葩は76歳の高齢で、法灯を空谷明応にゆずって退職されました。明徳3年(1392)ついに完成をみた相国寺は、勅旨により慶讃大法会が修せられています。

 その後相国寺第6世絶海中津は7層の大宝塔の建立計画を進めました。

焼失と再建

 草創まもない相国寺は応永元年(1394)、寮舎からの出火で、堂塔伽藍全部を焼失。当時住持を退き等持院にいた相国寺第6世の絶海中津は、義満に「ぜひ復興を」と、励ましました。義満はそのとき37歳でした。翌年には仏殿、開山堂が立柱、応永3年(1396)には法堂が再建されています。応永6年に大塔が完成し、高さ360尺(109m)といわれ、天下の壮観なりと言われましたが、応永10年、落雷によって焼失しました。こうして応永14年(1407)頃相国寺は旧観に復興しました。翌年義満が51才で逝去しています。

 しかし応永32年(1425)の出火でまたも全焼、そして当時の住持誠中中?と四代将軍義持、その後六代将軍義教によって再建の努力がされました。また足利義政によって再建が進められ、寛正4年(1463)法界門などが完成し再び大禅刹が出現したのです。 しかし応仁元年(1467)1月18日に火ぶたを切った応仁の乱、天文18年(1549)の天文の乱でまたもや相国寺は全焼してしまったのです。このように内部からの失火で2回、兵火で2回全焼してしまった相国寺の本格的な復興が始められたのは、天正12年(1584)、第92世西笑承兌が入寺してからです。

 西笑承兌は、千利休らと共に秀吉に仕え、外交文書の作成を行ない、秀吉の有力なブレーンとして重く用いられました。そして、秀吉亡き後は、家康に仕え黒衣の宰相と呼ばれた人です。この西笑承兌によって相国寺再建の資金が集められ、豊臣秀頼の寄進により慶長10年(1605)、法堂が完成し、慶讃大法会が行われました。西笑承兌は、相国寺を再興した中興の祖といわれています。

 この時建てられた法堂は現存し、現在では、日本最古の法堂として、桃山時代にできた禅宗様建築としては、最大最優秀作といわれています。法堂は松林に囲まれ、その威風堂々たる伽藍建築は、重要文化財に指定されています。その後、1788年に天明の大火の惨禍にみまわれましたが、この法堂は、かろうじて難を逃れました。その後、第103世梅荘顕常、第105世維明周奎らによって再建が進められ、文化4年(1807)恭礼門院(桃園天皇皇后)の旧殿を賜り、開山堂として再建、方丈、庫裏等が再建されています。現在のものはいずれもこのときのものです。

明治時代

 明治時代になってから、明治政府の廃仏毀釈により、全国の寺院は苦境に立つことになりました。当時の教部省に信教の自由を認めるよう抗議したのが、相国寺第126世独園承珠でした。独園承珠は、明治政府の廃仏毀釈に対して、全仏教界からの信頼を一身に負い、大教正となり、仏教の信仰の自由を取り戻しただけでなく、廃仏毀釈によって危機に瀕した相国寺の財政の再建にも尽くしました。

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