はじめに
相国寺は、高い寺格と輝かしい歴史をもっています。
室町時代の中頃の蔭涼軒日録(いんりょうけんにちろく)という日記の寛正五年(一四六四)のところを見ますと、八代将軍足利義政は、実に四十数回も相国寺に参詣しています。現職の将軍が一年間にこのようにしばしば参詣した寺は、他にはありません。かつての相国寺は、室町幕府の厚い保護と、将軍の帰依とによって、五山禅林の第二位として、幾多の禅傑を生み出し、日本文化に果した役割は、まことにに大なるものがありました。
その繁栄と栄光の歴史をもった相国寺も、今日ではあまり知る人がなくなりました。相国寺を「しょうこくじ」(注1)と正しく発音するものすら少なくなってしまったことは、まことに残念至極といわねばなりません。
一体何故こんなことになってしまったのでしょうか。私は二つの理由を考えています。
第一に、室町時代には五山文学や水墨画の達人を生み出した相国寺は、室町幕府の東隣に位置したため、幾度も戦乱に巻き込まれて、その文化財の多くが回禄(注2)焼失してしまいました。従って観光の対象となる文化財に乏しいため、こんにち京都の名のある寺院のほとんどが、観光寺院として人口に膾炙(かいしゃ)(注3)しているのに対し、独り相国寺は観光PRがなされていないため、余り世間に知られないことになったのです。
第二に、幾度かの回禄炎上によって、貴重な古文書類その他の文化財を失ってしまったため、詳しい寺史が作られていないことです。南禅寺史、東福寺誌、円覚寺史、正法山誌のように、精緻を極めた寺史の存在するなかで、相国寺には、「萬年の翠」というわずか九十ページばかりの小冊子の寺史があるのみです。もとより小冊子とはいいながら、少ない史料を精力的に調査研究して書きあげられた労作であり、著者の故小畠文鼎師の努力を、いささかも無視するものではありませんが、史料不足のため、これ以上の寺史は中々出来ないのです。しかも今日では、この小冊子も容易に手に入らない現状ですから、相国寺の歴史について知っている人が少ないのは、むしろ当然のことといえましょう。 私はこのように忘れられようとしている相国寺の輝かしい歴史とその中で活躍した幾多の禅匠について述べることによって、相国寺の栄光ある過去を掘りおこし、相国一派の檀信徒のプライドを喚起すると同時に、相国寺の新たな発展を念願するものです。なお幸いなことに、平成九年、「相国寺史料」全10巻付録1巻(普明国師六百年遠諱記念事業)が完成し、相国寺の研究に大きなはずみがつくものと期待されます。
(注1) 漢字は発音によって意味の変わる字がいくつかある。例えば「楽」という字は「ラク」と発音した場合は気持ちが良いという意味になり、「ガク」と発音した場合は音楽の意味になる。「相」という字も「ソウ」と発音した場合は人相、世相という様にすがたかたちという意味と「相互」という様にたがいにの意味になる。「ショウ」と発音した場合は助けるという意味になる大臣を首相、外相というのは国家運営を助ける人という意味であり、相国というのも首相と同じ意味であり、「ショウコク」と発音しなければならない。
(注2) 火の神のこと、転じて火事・火災のこと。祝融も同じこと。
(注3) もてはやすこと。
相国寺創建
寺地は幕府の東隣にあたる安聖寺付近(今の相国寺の位置)と定められ、十月から付近の家屋の移転が行われました。当時の公家の日記によりますと、近辺の住宅は貴賤によらずみな他所に移され、そのさまは平家の福原遷都以来例のないほど強引なものであったようです。
そして早くも十月二十九日には仏殿、法堂の立柱が行われました。春屋妙葩は終始造営の責任者として、陣頭指揮をとりました。
永徳三年十二月には既になくなっていた夢窓国師を相国寺の第一祖(開山)に追請し、春屋が第二祖(事実上の開山)として入寺しました。十二月十四日には、義満は亀山法皇の南禅寺建立の例にならい、義堂と共に相国寺に赴き、義堂と相肩してもっこを担い、土をはこぶこと三度に及んだといいます。義満の相国寺にかける意気込みがうかがわれます。
義満は自分の建立した相国寺を是非京都五山の一つに入れたかったのですが、すでに五山は決定していましたから、相国寺が強引に五山に入れば、いずれかが五山から脱落しなければなりません。義満はその点で苦しんでいました。至徳三年(一三八九)二月十日、義満は義堂に対し、 「相国寺の仏殿も出来上がったのだが、これを五山の中に入れることが私の願いである。しかし、そのためには、一カ寺余ってしまう。万寿寺を除こうか、相国寺を準五山としようか、それとも六山としようか。」 「どちらもみないけませぬ。唐には五山の上というのがあります。天皇によって建立された南禅寺を五山の上にすれば、相国寺が五山の位に入るのではございませんか。」 義満は大いに喜んで、さっそく相国寺を五山の第二位に列位しました。 明徳三年(一三九二)八月二十八日、堂塔伽藍一切が完成した相国寺では、盛大な落慶供養が行われました。永徳二年着工してから、丁度十年の歳月を要したことになります。義満の喜びはいかばかりだったでしょう。洛北にそびえる木の香も新しい殿堂、威儀を正した僧侶、義満に供奉する公武の人々、見物の群集、相国寺内外はまさに大フェスティバルのパノラマだったのです。「相国寺供養記」という本によりますと、当日の模様を、「路頭縦と云い横と云い、桟敷左に在り右に在り、都鄙群集して堵(かき)のごとく、綺羅充満して市をなす。」という風に記しています。
この供養のほぼ一ヶ月あと、六十余年も抗争をつづけた南朝との間に和議が成立し、待望の平和がよみがえるのです。恐らく南北朝和議成立のことは、落慶供養の日すでに義満にはわかっていたはずです。それだけに義満の心は一層喜びにうちふるえていたでしょう。当日は、「天顔快晴、秋気清爽」でありました。それはまさに義満の心を表現しているようでした。ただ残念なのは、相国寺造営に苦心した、春屋妙葩は既にこの世を去っていて、晴れの式典を見ることが出来なかったことです。
春屋妙葩
相国寺は着工してからわずか四年という驚くべきスピードで、南禅・天龍と比肩する大伽藍が完成したのでした。このような突貫工事が可能だったのは、すべての堂塔が新築でなく、いくつかの建物は他からの移築であったことにもよるようです。例えば、法堂は等持院の旧法堂を移したものでしたし、方丈も畠山基国の寄進によって、五条にあった邸宅を移したものでした。もっとも、これは建立を早めるためというより、幕府の財政問題がからんでいたのです。しかし、このような限られた財源の中で、短時日の間に大伽藍を完成することができたのは、何といっても工事の最高責任者である春屋の敏腕のおかげでした。春屋は後で述べるように、すぐれた禅僧でしたが、とりわけ寺院の修造には抜群の才能をもっていました。 延文三年(一三五八)天龍寺が焼失したとき、彼は造営幹事をつとめ、ほどなく旧観に復しました。それから三年後、今度は臨川寺が災厄にあいました。臨川寺は夢窓国師を開山とする大禅院で、一時は五山に列位されたほどの寺です。夢窓門派の禅僧達は、「春屋でなければとても復興はできまい」と評議し、天龍寺の雲居庵にいて再三固辞する彼を、むりやり臨川寺住持に推薦しました。この時も、彼の才能は遺憾なく発揮され、またたくまに堂宇を再建したのでした。この才能が相国寺の早期完成をもたらしたのです。
それでは、春屋の修造工事に関する才能とは、一体なんでしょうか。それは恐らく、第一に政治的かけひきの巧みさ、第二に現場職人の処遇の巧みさであったと思われます。後述するように、春屋の政治的手腕は非凡であり、足利将軍や近侍の大名達と巧みに結んで、夢窓一門の禅宗界制覇をなしとげましたし、一方相国寺建立にあたっての「番匠木屋」(ばんしょうきや)に与えた規定をみますと、大工職人にまで細かい規律を作っているほどです。
生いたち
春屋妙葩が相国寺住持になったときは、すでに七十三歳になっていました。勧請開山として第一祖に任ぜられた夢窓は、示寂してから三十数年を経ていました。七朝の帝師といわれる夢窓国師は、非常に著名ですし、東大の玉村竹二教授の『夢窓国師』というすぐれた書物もありますので、ここでは触れないことにします。
事実上の開山である春屋も、あらゆる面で傑出した禅僧でしたが、師の夢窓の高名の陰に隠れて、今日余り目立たないのは残念なことです。
夢窓に弟子の多いことは有名です。僧俗あわせて一万人以上にのぼったといわれます。しかし、本当の嗣法の弟子は二十数名であったようです。そのうちでも、春屋妙葩・義堂周信・竜湫周沢・絶海中津などは、夢窓の手度(しゅど)(子飼い)の弟子として、一段と光彩を放っている秀才でした。
春屋は鎌倉時代の末期、応長元年(一三一一)甲斐に生まれました。夢窓の甥にあたります。彼は幼少の頃より非凡な才を示し、血縁の関係上、夢窓にも早くから接する機会がありました。十五歳の時、美濃の虎渓山永保寺で夢窓より得度をうけ、翌年師のあとを慕って南禅寺に至り、本格的に中央禅林の生活に入りました。
夢窓は血縁であることから、他の弟子達に与える影響を考えて、表面的には春屋を慈育する素ぶりをみせませんでしたが、それでも骨肉の情はあらそえず、なにかと目をかけてきびしく指導したようです。春屋は師のそのような暖かいがゆえの厳しい鉗鎚(けいつい)(きたえること)に、十分こたえました。春屋三十五歳の頃には、天龍寺雲居庵の夢窓のかたわらにあって、特に朝夕参禅弁道にはげんだそうです。夢窓は常に昔の名僧の公案を提して、春屋を鍛えようとしたのですが、彼は、山彦が応えるように、即座に正しい見解を述べたといいます。
こうして夢窓に師事するかたわら、竺仙や清拙といった元国より渡来した名禅僧についても学びました。その中で、元朝風の独特の回向文や諷経の曲調を学び、生来の美声とあいまって、春屋独自の節をあみ出したのです。世に「相国寺の梵唄(ぼんばい)」とか「相国寺の声明面(しょうみょうずら)」などと称されて、相国寺の僧達のお経や回向文の曲節の美しさが有名になるのも、彼のおかげでありました。
観応二年(一三五一)春屋にとって親より大切な夢窓が七十七歳で円寂しました。春屋の四十一歳の時です。しかしその時、彼はすでに第一級の禅僧に成長していました。
翌年彼は、夢窓国師の年譜を編みました。同時に、彼が夢窓から聞いた教えを大小となく集録した法語集を作り、『西山夜話(せいざんやわ)』と名ずけました。元来年譜や法語集を作るのは、もっともすぐれた弟子が行うのが通例ですから、春屋は夢窓の門下では、もっとも信頼された嗣法(しほう)の弟子であることが、自他共に容認されていたわけです。
南禅寺山門事件1
貞治六年(一三六七)は春屋にとって画期的な年でした。
この年の九月二十九日、足利義満は天龍寺に参詣し、長老(住持のこと)の春屋から仏弟子として受衣したのです。十歳の義満と五十七歳の春屋との初めての出会いでした。そしてこの年の暮れには、父義詮がなくなり、弱冠十歳の少年義満は第三代の将軍職をつぐことになったのです。戦乱と部下の離叛という困難な問題が、この幼将軍の前途に待ちうけ、彼をなやまし続けました。義満が禅的修養を欲するのは当然であり、春屋もまたこれから終生義満の心の師として、陰に陽に将軍を補佐しました。
この頃南禅寺では、楼門を新築するため、関所をもうけて関銭の徴収を始めました。ところが、三井寺の僧がここを通過するとき、関銭のことでいい争い、遂に南禅寺側の者の手によって殺害されたのです。三井寺側は大いに怒って、延暦寺を語らって僧兵をさしむけ、南禅寺の関所を破壊しました.当時三井寺や延暦寺・興福寺などは大勢の僧兵を召しかかえ、自分達のいい分が通らないと法も恐れず乱暴を働くという手のつけられない状態でした。幕府は一応南禅寺側に味方していました。ところが、南禅寺の定山祖禅が、勇敢にも「続正法論(ぞくしょうぼうろん)」という文を書いて、延暦寺や三井寺を痛烈に罵倒したのです。この背後でどうやら春屋が応援していたようです。
山門側(延暦寺)の怒りは火と燃え、南禅寺の建築中の楼門を破却すること、定山・春屋という邪徒を遠島に処することを要求して、激しい強訴をくり返しました。この山門の側のデモの圧力に幕府も屈してしまい、遂に応安元年(一三六八)定山祖禅を遠江に流し、翌年南禅寺楼門を破壊しました。幕府の弱腰に対して京都の禅僧達は、いっせいに自分の寺から身を退いて抗議しました。とりわけ春屋の怒りは大きかったようで、彼の怒りは幼少の義満将軍のもとで管領を勤めている細川頼之に向けられました。
南禅寺山門事件2
応安四年になりますと、南禅寺事件のほとぼりも漸くさめましたので、幕府は南禅寺を旧観に復そうとして、春屋の出馬を要請しました。春屋が怒っていることもありましたので、幕府では管領細川頼之が自ら公帖(こうじょう)(将軍よりの住持任命状)をたずさえ、再三にわたって彼に頼んだのですが、春屋は厳然とこれを拒否し、やがて丹後の雲門寺という寺に隠栖してしまいました。頼之は臨川寺の塔頭三会院に春屋一派を集めて、善後策を協議しようとしたのですが、春屋の門徒は皆風邪と称して出席しなかったため、激怒した頼之は春屋一派二百三十数人の僧籍を削ってしまいました。春屋等のこのように強硬な抵抗は、彼等が南禅寺問題に対する頼之の処置を、いかに憤っていたかを示すものですが、それにしても、この強い抵抗が出来たのは、頼之に対して反感をいだく諸大名がかなり存在して、早晩頼之は失脚するだろうという、深い政治的洞察があったからなのです。そうでなかったら、せっかく築いた自己の地盤(それは夢窓派の地盤ですが)を、みすみす失ってしまう愚行を、賢明な春屋がやるはずがありません。果せるかな、康暦元年(一三七九)都で政変が起り、今まで権力をふるっていた細川頼之が失脚し、代って斯波義将が管領となり、春屋はさっそく丹後雲門寺より呼びもどされました。八年間の不遇な隠栖から、一気に桧舞台にカムバックしたのです。彼は早速南禅寺住持に請ぜられ、初めて天下僧録司となり、更に後円融院より智覚普明国師の号を賜うなど、めざましい活躍ぶりでした。僧録司とは全国の禅院を統制し、住持の任免権をにぎる文字通り禅宗界最高の要職です。春屋がこのような最高位にのぼったことは、すなわち夢窓門派の禅宗界に於ける圧倒的制覇を意味します。勿論、春屋に帰依した義満の厚い庇護によるところ大なるものがありましたが、同時に春屋の弟弟子で、秀才のほまれ高かった義堂周信の努力も無視できません。
春屋が義満の請を受けて、相国寺の建立に尽力したのは、すでに功なり名とげて七十歳の老禅僧になってからのことです。彼にとってはいわば最後の御奉公といった気持ちが強かったのです。それだけに、老体にむちうち、長年たくわえたあらゆる力をふりしぼって相国寺建立にあたったと思います。いわば相国寺は春屋の執念の所産だったいえます。
至徳二年(一三八五)十一月二十日、本尊毘盧舎那仏を安置した仏殿が完成し、南禅寺住持義堂周信を大導師として、盛大な慶讃仏事が行われたとき、二十八歳の青年将軍義満の側で両の眼に涙しながら仏事をふり仰ぐ七十五歳の春屋の姿が彷彿します。
彼はその翌年相国寺住持職を空谷明応にゆずりました。
嘉慶二年(一三八八)八月十二日の夜、嵯峨鹿王院にあって養生していた春屋は侍僧をかえりみて、「私の世縁もすでに尽きたようだ。お前達と訣別する時がきた。」といい、筆墨を召し、
「幻生七十有余年、了却す先師未了の縁、
一国の黄金収拾し去って、古帆高く掛く合同船」
と遺偈し、十三日未明大円寂しました。七十八年の生涯でした。遺骸は鹿王院に荼毘し、爪髪を三分して、南禅の竜華院、相国の大智院、建長の竜興庵の三箇所に納めました。
春屋が逝った同じ年、奇しくも義堂周信・竜湫周沢が前後して示寂しました。夢窓門派の発展の基礎を確立した三禅傑が同時になくなったのは、因縁とはいえ不思議な気がします。彼等のあとをうけて夢窓門派の総帥となったのは、相国寺六世絶海中津でした。
相国寺炎上1
春屋妙葩や義堂周信が逝ったのち夢窓門派を支えたのは、絶海中津と空谷明応でありました。明徳三年のあの大落慶式のとき、相国寺住持として栄誉を一身に集めたのは空谷明応でした。彼は始め夢窓国師の弟子となりましたが、国師は彼を自分の弟子とせず、国師の上足であった無極志玄の弟子にし、孫太郎と呼んでかわいがったのでした。それは、国師が夢窓一門の発展のためには、才幹のある空谷を孫弟子にしておく方がよいと考えたからです。果たして彼は一代の名僧となりました。性海霊見という空谷と比肩される名僧がいました。ある日、後小松天皇が一休和尚(彼は後小松帝の落胤(らくいん)〔正妻でない人の子〕といわれます)と対談されたとき、
「空谷と性海といずれが名僧と思うか」と質問されたとき、一休はこう答えました。
「それは空谷が上です。性海はまだ文字に執着していますが、空谷は名利二つながら脱却しています。」
口の悪い一休和尚がほめたのですから、本物といえましょう。相国寺供養記によりますと、空谷は相国寺落慶法要の大導師をつとめ、導師御布施として銭三千貫、砂金百両、鞍置馬十匹、金作御剣一振、御衣五領を拝領したのですが、彼は一切それを受用せず、悉く相国寺に寄進したのでした。また国師号(仏日常光国師)を賜りながら、それを辞退し、師の無極志玄のために国師号を請うたのです。
「名利に着せず、いよいよ智徳を施さる。当時の称嘆、後代に美をのこすものなり」と供養記は述べています。相国三世空谷の名僧ぶりについては、これ以上くどくいう必要はありますまい。
明徳三年(一三九二)八月二十八日相国寺落慶供養が盛大に行われたことについては、すでに前述しましたが、この供養法要は朝廷の御斎会に准ぜられる格式の高いもので、当時義満の権勢がいかに強大であったか想像できます。
ところで、「相国寺供養記」によりますと、完成された相国寺の全容は次のようなものです。寺の周囲二十余町(約二.四キロ)、その内部に建てられた堂塔は、惣門、山門(門前に池あり、石橋がかかっていた)、仏殿(覚雄宝殿という)、土地堂、祖師堂、法堂(雷音堂)、庫院(香積院)、僧堂(選仏場)、方丈、浴室、東司、講堂、鐘楼、塔頭(鹿苑院、資寿院、大智院、常徳院、雲頂院)などがあり、これらの新しい堂塔伽藍が、御所の北側、室町第(花の御所)の東隣に、その偉容を示していました。更に明徳三年十月絶海中津が相国六世として入寺しますと、七層の宝塔(大塔)建立の計画をすすめ、翌四年六月には、立柱式も行なわれ、相国寺は最終的完成に更に一歩進めたのでした。
相国寺炎上2
ここで塔頭について説明しておきましょう。塔頭とは、開山始祖や歴代住持の碩徳(せきとく)の人の塔所のある子院で、たいてい本寺の周辺に建てられました。現今、相国寺本山に参詣するとき、境内地にあって、本坊を取り囲むようにして建っている寺を塔頭といいます。相国寺の塔頭は普通「十三塔頭」とよばれ、その数は十三でありましたが、創建当時は五塔頭でありました。ところで、この五塔頭は今日残っておりません。
鹿苑院 これは、相国寺の建立より、五年前にすでに建てられています。初め安聖院といい、永徳三年(一三八三)鹿苑院と改められました。義満の御影堂と定められ、塔頭の中でもっとも重んぜられ、後に詳述するように、ここに入院した禅僧は、僧録職に任ぜられて、日本の禅宗界を支配しました。現在普廣院のある場所が鹿苑院だったといわれています。
資寿院 のち崇寿院と改称され、いわゆる開山堂で、夢窓国師のまつってあるところです。ここは山内の名僧碩徳の輪番住持になっていました。現在は開山堂として、本山の一部になっています。
大智院 普明国師(春屋妙葩)の塔所。のち足利義政の弟で、応仁の乱の原因を作った一人である義視が、大智院殿と号し、この寺を御影堂としています。
常徳院 仏日常光国師(空谷明応)の塔所。のち足利義政の子、九代将軍義尚が常徳院殿と号し、この寺を御影堂と定めました。
雲頂院 相国寺四世太清宗謂の塔所です。この人は夢窓の法系ではなく、雪村友梅という人の弟子で、このような異系の人を義満が呼んできて、住持につけたことは、注目すべきです。なお、六世絶海以後は、太清のように、夢窓派以外から入ることはほとんどなくなりました。一つの寺院にあって、その住持が法系にこだわらず、広く人材を求めて任ぜられる場合、これを十方住持制(じっぽうじゅうじせい)といい、同じ法系のものでうけ嗣がれる場合、これを徒弟院といいます。相国寺は初め十方住持制をとっていましたが、やがて夢窓派の徒弟院となったのです。
相国寺炎上3
落慶供養が大々的に行なわれてよりわずか二年後、応永元年(一三九四)九月二十四日のことです。直歳(しっすい)寮から出た火は、折からの風に煽られ、次々ともえ拡がり、たちまち全相国寺を焼き尽くしてしまいました。直歳とは禅院の中で、庶務一般をすべる僧のことで、この寮舎は、本坊に付属していました。
義満の胸中はいかばかりだったでしょう。西隣の花の御所にいた彼は、天をこがして凄まじく燃える相国寺を見て、すぐさま駆けつけたのでした。紅蓮の焔の中に立ちつくす彼の脳裏を、この寺を建てるために苦労した十年の歳月の一こま一こまが走馬灯のように明滅去来したにちがいありません。
事実、義満が相国寺建立にもやした執念と努力は、なみたいていではありませんでした。自らもっこをかついで土を運び、幾度も幾度も足を運んでその進捗状況を見守りました。河内国玉櫛庄を寄進して寺産をととのえ、諸役免除の特権を与えたりもしました。いずれもお祖父さんの建てた天龍寺より、もっと大きく立派な寺を造ろうという義満の執念のあらわれでした。
その意味で、明徳元年四月二十一日より、祖父尊氏の三十三回忌法要を、自分の寺相国寺で厳修することが出来たのは、彼にとって無上のよろこびであり、彼のプライドを高揚させるに十分でした。この法要は未曽有の盛大なものでした。単に相国・南禅・天龍などの五山禅僧のみならず、全仏教界の名僧知識が動員されました。相国寺のかたわらに七間の八講堂が特設され、南都北嶺(東大・興福・延暦・園城)の碩学によって、法華八講が数日間続けられました。また、相国寺住持太清宗謂の陞座拈香(しんぞねんこう)も行なわれました。義満は終始文武百官をひきいて聴聞しました。恐らく誇らしげな笑みは、彼の顔から消えることはなかったでしょう。物見だかい京の庶民達も雲集して、「一条辺二条のあたりなどは、さながら布を引いたるがごとし」「わくらば〔永遠に〕の御法」といったありさまでした。
相国寺炎上4
焼跡に茫然自失してたたずむ三十七歳の将軍義満に、等持院よりかけつけた絶海ははげまし続けるのでした。
「昔、祇園精舎が焼けたとき、南天竺王は大願力を発して再興されました。中国の径山(きんざん)が災にあったとき、宋の理宗皇帝は勅命を下して再建されました。公方様も気をとりなおして、早速再建の準備をなされませ。」
義満はこの言葉に鼓舞され、再建に雄々しく立ち上がりました。それはまさに悲愴な決意でした。権勢をほしいままにしていたとはいえ、部下の将士は必ずしも心服していたわけではありません。まもなく大内義弘の応永の乱が起こるのです。財政もそうゆたかではありません。このような重大事に、空谷明応が再び住持に任命され、絶海中津も平等院にあって懸命に再建に努力しました。
焼失して二か月後の応永元年十一月一日、はやくも仏殿と山門再興の事始が行なわれ、槌音がたからかに洛北の空にこだましました。そして翌年二月二十四日には、仏殿と崇寿院(開山堂)の立柱式が挙行されたのです。崇寿院の昭堂は、絶海の努力によって、応永三年完工しました。法堂の立柱もこの年行われました。四年二月には、絶海が再び相国寺住持となりましたが、義満は特に彼を重んじ、この年から相国寺は夢窓門派の徒弟院となったのです。九月には大和元興寺の鐘をひいて鐘楼にかけました。六年には七重の大塔もできあがりました。こうして応永十二年方丈が落成する頃には、相国寺もすっかり旧観に復することが出来たのでした。思えば全焼以来十余年の歳月が流ていました。
義満は相国寺が全焼した応永元年の暮、将軍職を退きました。直に長子義持が将軍となりました。といっても義持はまだ九歳でしたから、実権は依然として義満の手中にあったのです。十一歳で将軍になったのですから二十六年間も将軍職についていたわけです。彼はその年太政大臣に任ぜられました。武門の最高位から、公家の最高位へ横飛びしたのでした。ちなみに、武士として太政大臣に任ぜられたものは、清盛と義満と秀吉の三人だけです。翌応永二年義満は三十八歳にして出家しました.四年には北山第を造ってここに移り住むことになります。
義満は応永十五年五月六日北山第でなくなりました。五十一歳でした。二十五歳で相国寺創建を思い立ち、三十五歳のとき念願の相国寺は完成しました。しかし、その二年後全焼し、再び建立にとりかかり、四十八歳の頃、ほぼ旧観に復しました。そして三年後には長逝したのです。思えば五十年の義満の人生の半分は、相国寺建立についやされたのです。その意味で、相国寺は義満の執念の所産だということができます。相国寺の一本の柱、一枚のかわらの中にも、義満の魂がしみこんでいるのです。
足利義満と金閣1
私は前回で、「相国寺は義満の執念の所産だということができます。相国寺の一本の柱、一枚のかわらの中にも、義満の魂がしみ込んでいるのです。」と述べました。まことに、相国寺の創建を語るときには、義満をさしおいては何も語れないといって過言ではありますまい。そこで、義満五十一年の生涯を簡単に述べておこうと思います。
義満は延文三年(一三五八)八月二十二日足利義詮の子として生まれました。母は石清水八幡別当通清(つうせい)の娘良子といいます。幼名春王(はるおう)と呼ばれていました。彼の生まれる四ヶ月前に足利幕府の始祖であり、祖父でもある尊氏が没し、彼の生まれた四ヶ月後に、彼の父義詮は二代将軍についたのです。義満は偉大な武将尊氏と入れかわりに、此の世に生まれてきたのです。それだけに、尊氏の達成できなかった足利幕府の基礎の確立という使命を背負って生まれてきた、運命の子でありました。
彼の幼少時代は多難でした。南北朝の対立抗争は依然としてくり返され、また部下の守護大名の中にも向背常(こうはいつね)ならぬものがいくらでもいました。康安元年(一三六一)冬、南朝方の楠木正儀らは、大挙して京都に攻め入り、将軍義詮はかろうじて近江に逃れました。父にはぐれたわずか三歳の義満は、近侍の者に抱かれて建仁寺の大竜庵にいた蘭州良芳の禅室にかくまわれ、そこからひそかに播州白旗城の赤松則祐をたよって逃れたのでした。幼い義満にとって、生涯忘れられぬ恐怖の傷跡となったことでしょう。
義満が十歳のとき父義詮は病にたおれ、その年の暮れに三十八歳の若さでなくなりました。義満が天龍寺の春屋妙葩を訪れて、弟子入りしたのはこの年です。内乱の渦中にあって、幕府の地位の安定のために、父にかわってやらねばならぬ重大な使命感が、少年義満の肩にくい込むようにのしかかったのです。春屋和尚と対座した義満の顔は、あどけなさの中にも、まなじりを決してやりぬこうという、りりしさがあったはずです。「年僅かに十歳なれども、容貌端厳にして慈あり威あり、恰も鳳凰児のまさに羽儀を整うるがごとく、獅子児の哮吼せんと欲するがごとし」と当時の禅僧から評せられたのは、あながち誇張(こちょう)ではなかったと思います。
十一歳で将軍となった義満は、困難な局面にあってよく耐え抜いていくのです。春屋和尚らの精神的援助があったことは勿論ですが、政治的には良将細川頼之の補佐を得たことは、義満には僥倖(ぎょうこう)でした。三十九歳の働きざかりであった管領細川頼之は、幼い義満をよく補佐し、諸大名をおさえることに努力を傾注しました。
義満が二十一歳になった春三月、室町北小路の広大な土地に造営中だった室町第が完成し、ここに移りました。相国寺の西隣にあたります。鴨川の水を引き、一町に余る池を造り、庭には四季の花木を植えました。特に近衛家の庭前から糸桜を所望したのは有名ですが、その他の名園からも、めぼしい花木を求め、らんまんと咲きにおう華麗な庭園を見て、人々は「花の御所」と呼びました。この室町第の造営は、義満政権が一応安定したことを示すものといえます。しかしまだまだ安心はできません。義満は至徳三年(一三八六)頃から、しきりと遠出の旅行をしています。富士遊覧・天橋立・若狭の小浜・厳島神社などに遊んでいます。これらは、いずれも大名を威圧するためという政治的なものでした。
足利義満と金閣2
明徳元年(一三九一)には山名氏の反乱が起りました。山陰地方を中心として、十一ヶ国を領有する山名一族の勢力は、当時「六分一衆」といわれて人々から畏怖されていたほど強力なものでした。義満にとって恐らく最大の危機だったと思います。しかし、他の大名をよく味方につけて、山名氏を内野の戦いで破ることができました。この明徳の乱の鎮圧によって、幕府の基礎は確立しました。翌年には念願の南北朝合一に成功し、北朝系の後小松天皇が即位されました。義満の顔からけわしさの相が消え去り、円満な相貌が現れたのはこの頃でしょう。
ところが、これから順風満帆の人生を送れる時期になって、彼は突如として将軍職を嗣子義持に譲りました。義満が三十七歳、義持はわずか九歳のときでした。義満はすぐ太政大臣に任ぜられました。武家の最高位から、公家の極官へみごとに横すべりしたのです。このように公武二つの世界にわたって最高の栄達をとげたのは、日本の歴史上例のないことです。しかし、義満が将軍職を辞したとはいえ、義持はまだ十歳でしたから、事実上の権力は彼が握っていたのは勿論です。
ところが、太政大臣に任ぜられてからわずか半年ばかりで、義満は後小松天皇の再三の慰留も振り切って官を辞し、突如出家してしまったのです。応永二年の夏、彼が三十八歳の時のことでした。もっとも、彼の出家は完全な遁世脱俗ではなかったようです。後嗣の義持がまだ九歳であってみれば、とても世を捨てることはできなかったはずです。前年相国寺を焼失した痛手は大きかったのですが、これとて、彼の出家の動機にはならなかったでしょう。では、一体彼の出家の理由はなんだったのでしょうか。
出家の前年、彼は二人の子どもをもうけました。義教と義嗣です。義教は後に六代将軍になった人で、生母は義持と同じ日野慶子でした。義嗣の母は春日局です。春日局というと、すぐ徳川三代将軍の家光の乳母で、大奥にあって権勢をふるった女性を思い出すのですが、春日局というのは必ずしも固有名詞ではなく、一般に将軍の側近に仕える女性の一人をさすのです。義満は義嗣が生まれると、異常なほど彼を可愛がったようです。多分、生母春日局をことのほか寵愛していたからでしょう。それは多感な少年期の義持の心を傷つけ、父子の間は次第に冷たくなっていきました。後年義持が、明との交易を中止するなど、父の政策に反対しているところをみると、父への不満は根強いものでありました。しかし、義満の義嗣への盲愛は、義持の心情を理解してやるなどという余裕を与えないほどでした。なんとかして弟の義嗣を義持の上位へ昇らせたい、という気持ちでいっぱいでした。義満の出家はその下準備のための遠大な計画ではなかったかというのです。
そのうえ、義満自身も太政大臣に満足せず、更にもう一段高い地位をのぞんでいました。太政大臣より上位というのは、一体どんな位でしょうか。
ともあれ、応永二年六月二十日、彼は夢窓国師の影前で、空谷明応(くうこくみょうおう)を戒師として出家剃髪し、天山道義と号することになりました。公家や武将の中には、彼の出家にならって、出家するものが多くいました。多分に阿臾追従(あゆついしょう)によるものですが、義満の権勢のほどがしのばれます。
足利義満と金閣3
出家して二年目、応永四年、義満は洛北の北山の地に、極楽浄土にも比せられる華麗な北山第の大工事に着手し、翌年四月みごとに完成しました。現在の鹿苑寺(金閣寺)です。
北山の地は、美しい左大文字や衣笠山を背にし、前方に紫野や花園の平地のひらける景勝の地で、古くから京都の人々に愛された地でした。鎌倉時代には、ここに西園寺公経(きんつね)が広大な山荘をいとなみ、その優雅なたたずまいは、広く世間に知れわたっていました。功なりとげた義満は、この西園寺の北山第がほしくなり、河内の領地と交換に、この地を譲り受けて、一大造営にとりかかったのです。その工事を詳しく記した文献は今日のこっていません。相国寺の名僧瑞渓周鳳の日記に臥雲日件録というのがあります。もっとも、これとてその抜粋しかのこっていませんが、この日件録の中に、創建当時の北山第の様子が記してあります。それを紹介しましょう。
文安五年(一四四八)八月十九日、瑞渓周鳳のところへ、厳一検校という琵琶法師が遊びに来ました。瑞渓周鳳は当時、鹿苑寺(金閣寺のこと)の住持をしていましたが、二人は秋の夜長を四方山話ですごしました。厳一は大変な物知りでした。ちょうど金閣ができて五十年目にあたっていたためでしょうか、和尚は義満が北山第に移ったときのもようなどをたずねますと、厳一はしたり顔で語り始めました。
「北山第ができたのは、たしか大内義弘が義満公にそむいた堺合戦の一・二年前のことです。造営のはじめ、全国の諸大名に命じて土木工事をさせられたのですが、ひとり大内義弘だけは命に応じなかったので、義満公はひどく憤激されました。北山第は造営のなかばですでに二十八万貫をついやしたといいますから、完工したときには、ゆうに百万貫はくだらなかったでしょう。」
百万貫というのは約百万石です。一石を二万円とするならば、約二百億円の工事だったわけです。その大部分は諸大名に分担させたのです。厳一の話はなおつづきます。
「楼閣は夜空の星のように東西に南北に点在し、その立派さは天より降り地より湧いたかのごとくでした。管領の斯波義将は義満公に『この新第は西方極楽浄土にもまさる美しさでございます』といったということです」
足利義満と金閣4
第内には美しい池、澄んだ水、珍しい樹木や石が、北山の自然とよく調和し、その中に、護摩堂・懺法堂・紫宸殿・公卿間・舎利殿などが建ち並んでいました。この舎利殿こそが宝形造三層楼の金閣でありました。一層と二層は蔀戸(しとみど)を釣った公家風の寝殿造で、義満自ら筆を振るった「潮音洞」の額がかかげられ、三層は華頭窓の禅宗風が取り入れられ、後小松天皇の「究竟頂(くきょうちょう)」の額がかかげられています。そして屋根には金色さん然たる鳳凰が飾られています。鏡湖池に映す姿は、まさに圧巻といえましょう。「春の夜の夢」という書物には、「中国、日本の珍しい材木を集め、いろいろ技をこらして造営し、黄金を散りばめて美しさの限りを尽くしている。だから人よんで金閣という。夜となく昼となく、工事がすすめられ、天下の奇物を集め、古い時代の書画、名器を全国から集めたが、義満の心に適わないということはなかった。」と記してあります。
義満の死後、遺言によって北山第は寺となり、義満の法号を寺号として鹿苑寺と呼ばれました。そして北山第のうちもっとも美しい金閣が今日まで残ったのは大幸でした。しかし、その金閣も、昭和二十五年放火によって焼失してしまいました。焼け跡に茫然自失する村上慈海老師の姿は、あたかも相国寺の灰燼の中に立ちつくした義満の姿にも似ていました。それからの老師の再建への努力は、私がのべる必要はありますまい。今は立派に再建され、義満の創建当時と全く同じ状態で、池辺に美しくそそりたっています。
義満は応永六年頃から北山第に住みつくようになりました。公家や上級武将、それに禅僧達が常に出入りし、優雅なサロンが作り上げられていきました。南都春日神社に奉仕する観阿弥・世阿弥父子が招かれて、幽玄の能を生み出したのもこの雰囲気の中でした。北山第をサロンの中心に、幽玄の中にも力強い北山文化が作り上げられたのです。
足利義満と金閣5
義満の北山第時代は、彼の得意の絶頂期であり、もっとも幸福な時代であったようです。相国寺にある法体の画像や、金閣寺に安置されていた木像をみますと、いずれもふくよかな円満具足の姿を示しています。この頃になりますと、彼の信仰内容がだんだん変わってきました。かって一途に参禅弁道した彼でしたが、北山時代すなわち四十歳代に入りますと、密教的法会をしきりに営むようになってきます。それは、彼の師であった禅の巨匠達が次々に遷化したことにもよるでしょうが、一面厳しい生活にピリオドがうたれ、安定した日常になったからでもあったでしょう。
応永十二年(一四〇五)ごろには、焼失した相国寺もほとんど旧観に復しました。花の御所、相国寺、北山第という三大巨構は、ことごとく揃ったのでした。
応永十三年(一四〇六)、後小松天皇の生母通陽門院が危篤になられました。天皇が在位中に二度葬式を出すことは不吉とされていました。後小松帝の父君後円融天皇は、すでに崩じておられましたから、今度で二度になるわけです。このような場合、不吉をのがれるため、天皇の母に准ずる女性を作って准母とするならわしがありました。このたびは、義満の夫人日野康子が准母と定められ、北山院の院号をもらったのです。臣下のものが准母になったのは史上はじめてのことです。かくして、義満は天皇の准国父となりました。天皇と愛息義嗣は准兄弟となりました。義満はこうして、太政大臣より更に上位に達し、それはほとんど皇族の一員に列せられたといってもよいのです。応永十五年三月八日、天皇は北山第に行幸されましたが、義満は天皇の座に対し、それと同様の雲繝縁(うんげんべり)の畳を二畳しき、その上に桐竹紋の法衣をまとって座ったのです。まさに天皇と同格です。義嗣もこの時十五歳の少年ながら、関白の上座に座ったのでした。そしてこの義嗣は四月二十五日には天皇の前で元服し、猶子となり、若宮と称せられました。
足利義満と金閣6
しかし皮肉な運命がまちうけていました。二十七日頃から義満は気分がすぐれなくなりました。願望が果せた安堵感から、一時に疲れが出たのでしょうか。五月四日には症状がは悪化し、昼頃には事切れたというニュースまで流れたのですが、夕方には生き返りました。しかし危篤状態は続き、遂に六日夕刻に永逝しました。五十一年の春秋でした。朝廷ではただちに九日鹿苑院太上天皇の尊号を贈ることを決定しました。しかし、義持は臣下のものがかかる尊号をもらった例がないという理由で、きっぱりとことわりました。
義満の遺体は翌朝六人の力者にかつがれて北山第から洛北等持院に移されました。六月十日には荼毘にふされました。等持院主万宗中淵が喪主となり、鹿苑院主大岳周崇(たいがくしゅうすう)が下火(あこ)(注1)し、五山の長老以下三千の僧衆が参仕した盛大な葬式でした。中陰の仏事が終わると、義満の遺体は塔所である相国寺の鹿苑院におさめられました。なお分骨は高野山安養院にも納められたということです。
一代の英雄、位人臣を極めた英雄はかくて逝きました。相国寺蔵の義満法体像は、彼の禅僧形の絵像です。曲ロクにすわり、叉手(しゃしゅ)した両手、ふくよかな面貌など、土佐行広の描く傑作です。応永三十一年、義満死後十六年目の作品です。その画像に鹿苑院主厳中周ガクが賛をしています。
「坐して扶桑七十州を鎮め、河清海晏殷周に越ゆ、威霊弥盛にして騎箕の後、裕を子孫に垂る千万秋」と。まことに裕かな禅法のながれを千歳の後までものこした功績は、大いに賛えなければなりません。
復旧の歓喜の声のまだ失せぬ応永三十二年(一四二四)すなわち義満が逝ってわずか十七年目にして、相国寺は再び劫火に見まわれたのです。復興の重責を負わされたのは、六代将軍義教でありました。
義満に関する手ごろな書物をあげておきましょう。
臼井 信義 『足利義満』 吉川弘文館
林家辰三郎 『南北朝』 創元社
笠原 一男 『下剋上の時代』 講談社
赤松 俊秀 『鹿苑寺史』 鹿苑寺
今谷 明 『室町の王権』 中公新書
(注1)導師が松明で遺体に火をつける火葬式
義持と相国寺再炎上1
義満が義嗣を偏愛したことは、多感な少年期の義持の心を深く傷つけ、その傷痕は一生彼の胸に暗い影としてまつわりついたのです。そして父義満に対する深い恨みとなり、弟義嗣に対する憎悪となって現れました。
彼が父に贈られることになった鹿苑院太上天皇の尊号を辞退したり、日明貿易を中止したのは、とりもなおさず、父に対する反抗にほかなりません。
応永二十五年(一四一八)には、義満が溺愛した義嗣がなくなりました。椿葉記によりますと、「この若公(義嗣)は大納言にまで昇進されたのに、野心の企があったらしく、露見して遁世したところを尋ね出され、林光院という寺に押し込められ、遂に殺された」 といってます。この記録を百パーセント信頼するわけにはいきませんが、恐らく憎悪にもえた義持が、義嗣の些細な落度につけこんで、彼を討ったのだろうと思います。彼は円修院殿孝山大居士と諡号(しごう)されましたが、別に林光院殿ともいわれ、その牌は林光院に安置されています。
林光院は現在相国寺の塔頭になっていますが、そもそも応永年間義満が創立し、夢窓国師を勧請開山とし、西の京のあたりにあったといわれます。応仁の乱後は洛中等持院のかたわらに移され、秀吉の頃に相国寺山内に移ったものです。
この林光院には、鶯宿梅(おうしゅくばい)という由緒ある梅の古木があります。この梅には次のような話が大鏡という平安時代末期にできた歴史物語にのっています。
村上天皇(十世紀の中ごろ)の御代に、清涼殿の前庭の梅の木が枯れたので、帝は他から代りの木を求められることになった。命をうけた重木という男が洛中を探し歩いたが、なかなかかっこうの梅が見つからなかった。ところが、西の京のある家に美しい色をした、枝ぶりもみごとな紅梅があったので、早速掘りおこして持ち帰ろうとすると、家の主人が、「木の枝にこれをつけて持っていって下さい。」といって一片の紙切れを渡した。重木は何か訳があるのだろうと思って、枝につけて持って帰った。帝がこの紙片をご覧になると、そこには、
『勅なれば いともかしこし 鶯の 宿はと問はば いかが答へむ』
とあったので、不思議に思われ、「何者の家か」とおしらべになると、紀貫之の娘の住家であった。帝は遺憾なことをしたものだと、恥かしい思いをされたのでした。
このことがあってから、この梅は鶯宿梅と名付けられました。林光院は貫之の娘の旧邸跡に建てられたので、梅の木も境内に残り、移築のたびに移植されて、現在に至っているというのです。小畠文鼎師は『万年の翠』の中で、「霜雪一千有余年、其幹は幾回か枯死し、其ひこばえが成長しては、遺伝的に名木の面目を維持してして来たのである。殊に近代は、著しく憔悴の度を進め、著花は極めて僅少であるが、其花は純白重弁にして、花唇に淡紅を点じ、 馥(ひふく)たる濃香は、尋常の梅香に求むることのできぬ風韻を存し、所謂仙品とでも謂うべき名木である。」と説明されています。
大鏡によるかぎり、貫之の娘の家の梅は、清涼殿に移植されてしまったことになっていますから、それがもとの邸跡に残っていることはおかしく、梅の木が千年も続いていることも理解に苦しむところです。しかし、それにもかかわらず、林光院の古木はこのような伝説を生むにふさわしい名木であり、相国寺の誇る文化財に違いありません。
義持と相国寺再炎上2
話を元へ返しましょう。
義持将軍の日常生活は必ずしもよくなかったようです。田中義成博士の「足利時代史」によりますと、常に大酒を飲んで泥酔し、また、後小松院の上﨟局と姦通して逆鱗にふれるなど、婬とうに流れた面があったようです。それでも世の中は比較的平和な時代でした。それは父義満の余慶もあったでしょうが、彼自身の政治的手腕も一流であったからです。彼の生活の乱れも、少年期にうけた傷跡のうずきのしからしめるものとして、私はある程度同情してよいのではないかと思います。彼が父にも劣らぬ禅の実践求道者であったことも、少年期の傷痕をいやす努力であったと思います。
義持は応永六年(一三九九)六月二十三日絶海中津に法衣を受け、その弟子となりました。彼が十四歳の夏のことです。その後四十三歳で生涯を閉じるまで、空谷明応・愚中周及・希世霊彦(きせいれいげん)など、多くの五山の碩学達と親交を結び、禅宗への信仰を深めました。相国寺四十二代瑞渓周鳳の日記である臥雲日件録(がうんにっけんりょく)に、次のような話がのっています。
あるとき、天台宗の華蔵院の僧と、等持院八講が終わったのち閑談したことがあった。その時義持は、
「お前の掛けている袈裟は誰から始まったのか」と訊ねると、華蔵院は、
「伝教大師が猿のために作られたのです。短くて便利でございますので、私達は皆これを用いております。」
「我宗ではそのような袈裟はない」
「公方様は我宗とおっしゃいましたが、一体我宗とは何宗のことでございますか」
「禅宗のことだ」
「どうか諸宗をみな我宗といって下さいませ。どうして禅宗だけを我宗とおっしゃるのですか」
「諸宗には禅宗ほどすぐれたものがないからじゃ」
義持がいかに禅に帰依していたかわかりましょう。臥雲日件録にはまた、次のような話ものせています。
応永三十一年(一四二四)四月、誠中中カンが相国寺の三十一世として入院(じゅえん)するとき、義持は相国寺方丈に赴いて観音懺法を聴聞した。懺法が終るやいなや俄かに席をたって茶堂に入り、衣鉢(えはつ)侍者(住持の世話をする僧)を招いてこういった。
「誠中和尚はなぜ懺雪罪愆増延福寿(さんせすいけんすんえんふじゅ)の語をいわなかったろうか。等為法界の等と為の間に、この八字があるはずだ。私はこの語を聞くためにやってきたのだ。しかるにいわなかったのだから俄に退席した。明十八日の懺法の時も参るから、八字を落とさぬようにといっておけ。」
義持の驚くべき禅への精通と、聴問のためには労をいとわぬ熱心な姿を見ることができましょう。
義持と相国寺再炎上3
応永三十二年(一四二五)は義持にとっては悪夢にような不運な年でした。義持はすでに応永三十年に将軍職を愛息義量(よしかず)に譲っていましたが、その義量が若冠十九歳で突如なくなったことです。看聞御記によりますと、天下は驚倒したといいます。薩戒記(さつかいき)という日記には、これは義嗣の怨霊のたたりであるとか、前年石清水八幡宮の神人数十人を殺したための神罰であるなどと記しています。それにしても、たった一人の息子を失った義持の失望と悲嘆はいかばかりだったでしょう。四十歳の義持が再び実質的将軍として政務をみることになりました。
この悲しみがまだおさまらぬ八月十四日の未刻、強い北風の中で相国寺は火炎につつまれたのでした。その模様を中山定親の日記薩戒記によって述べてみましょう。
未始刻(午後二時頃)北方で火の手があがった。柳原辺りだ。早鐘の声がしきりに聞こえる。下人に見に行かせたところ、相国寺塔頭乾徳院(のちの普廣院)とのことだ。乱風忽ち起こって、火災は数町にも及んだ。常徳院・雲頂院・鹿苑院など悉く焼け、猛火は僧堂につき、惣門をなめ、方丈・法堂・仏殿・山門・風呂・鎮守八幡をつぎつぎに焼いた。北風がしきりに吹いて、一条通り西にある法界門(妙荘厳域という)にまで飛び火した。南隣の御所でも大騒ぎとなった。火は酉刻の終わりごろ(午後七時頃)に及んでようやく鎮火した。そもそも相国寺は鹿苑入道大相国(義満)の創建になり、応永元年(一三九四)焼亡してより、今に至っても完全には復旧していない。 もちろん、七堂伽藍は造営になっているけれども。この寺は五山第一位を誇っていたが、今や一片の烟となってしまった。惜しいことだ、悲しいことだ。あとできくと、僧三人喝食二人が焼け死んだという。寺中でのこったところは、勝定院・大德院・大智院・大幢院・崇寿院輪蔵、その他少々のみである。相国寺本坊内の諸寮舎も一宇ものこさず焼亡してしまった。また大鐘も焼けた。この鐘は奈良の元興寺の鐘であったが、昔鬼神が撞いたので、人々は恐れて誰も撞かなかった。かの寺が荒廃するに及び、義満公が取り上げて、相国寺に懸けたもので、由緒あるものだった。
当時の住持は誠中中カンでした。義持がこの時どんな様子であったのか、それを語る史料はありませんが、かつて応永元年の焼失の時、義堂周信等に励まされ、自失の状から立ち直って再建への決意を固めた義満のように、義持と誠中はしっかりと手を握って、再建を誓ったことだったでしょう。
早くも十月七日には相国寺事始めがあり、十一月三日には、立柱の式が行なわれ、義持も列席しています。しかし、その後の再建は遅々として進みませんでした。幕府の財政が思うにまかせぬ実状だった上に、相国寺の寺領も次第に地方武士に押領されて、収入は減少の一途をたどっていました。この頃から、史料の上で、義持の大飲沈酔を述べた部分が、急に多くなってきます。四十歳の男ざかりであったはずの義持も、二つの大きな不幸にみまわれて、しだいに自棄的になっていったようです。応永三十五年一月十八日、後継将軍の見込みもたたないうちに、四十三歳で没しました。勝定院殿(しょうじょういんでん)贈大相国一品顕山大禅定門と贈号され、相国寺塔頭勝定院に安牌されました。
義教と相国寺再建1
義持の死後、管領達は後継者を決めるため、石清水八幡宮の神前で、籤引を行ないました。その結果、義満の第三子で、元天台座主(ざす)であり、当時は青蓮院門跡にあった義円に白羽の矢が当たりました。彼は還俗して六代将軍義教となります。将軍の決定になぜ籤を用いたかといいますと、それは前々から関東管領足利持氏が、将軍ポストを虎視たんたんとねらっていたからです。その野望をかわすため、神意による決定というかたちにしたのです。もとより、籤は義教にあたるように仕組んでありました。
かくして、正長二年(一四二九)義教は三十五歳で将軍となりました。彼の生まれたのは応永元年六月でしたが、それより三ヶ月のちに、相国寺は全焼したのでした。そしてまた、将軍についた彼の双肩には、応永三十二年全焼した相国寺の再建という重大使命が、重くのしかかっていました。義教と相国寺は、そういう意味で因縁浅からぬものがありました。
義教は厳格というよりむしろ冷酷といったほうがよい性格でした。武家であれ公家であれ、はたまた禅僧であれ、一寸した落度でも容赦せず、厳罰に処しました。ある日、義教が初めて直衣(のうし)をつけて参内したとき、東坊城益長がたまたま笑い声を発しました。義教は自分の姿を笑ったものだと思って、たちまち彼の領地を没収したといいます。一事が万事こういったやり方でしたので、世間では「万人畏怖の人」として恐れられていました。またあるとき比丘尼が伊勢に詣でて帰るや、狂人のような有様になって室町御所に入り、将軍をののしって「悪将軍」と叫びました。
時の人はこれはまさに伊勢神宮の神託だといいあいました。天台宗の最高位の僧侶として、慈悲忍辱(じひにんにく)の心を養ったはずでしたのに、還俗した義教には、たしかに徳に欠ける面があったようです。しかし、一方では、彼が将軍に就任した頃は、関東管領足利持氏をはじめ、多くの守護大名の中には反抗的態度をとるものがあり、厳しい条件が彼をしめつけていました。彼は就任早々から、きおった姿勢をとらざるを得なかったのです。それだけに彼の行動には同情すべき点があるように思われます。しかし、怨嗟の声は次第に大きくなっていきました。
義教と相国寺再建2
そのような中で、義教の相国寺に対する保護の気持ちは、まことにさかんなものがありました。それは大檀越としての責任と、厚い信仰心に裏づけられたものでした。義教の仏寺参拝は、ほとんど日課のようになっていました。いま、まったく無作為に永享八年(一四三六)二月を調べてみますと、
三日等持寺、六日雲頂院、七日大智院、九日大徳院、十一日長得院、十二日徳雲院、十五日相国寺都聞寮、十八日勝定院、二十一日聯輝軒、二十三日法住院、二十五日鹿苑寺といったぐあいです。以上の寺院はすべて禅寺ですが、そのうち相国寺に直接関係のないのはわずか三カ寺(等持寺、徳雲院、鹿苑寺)にすぎません。このような義教の禅院御成は、彼が嘉吉元年(一四四一)非業の最後をとげるまで続いたのです。
相国寺の復興は義教の努力によるものでした。その具体的史料は残っておりませんが、断片的なものから考えてみますと、永享七年までには、方丈・僧堂・諸塔頭が完成し、仏殿や山門の工事が進行していました。永享七年九月、義教は仏殿に安置する三尊仏の仏師を決めるように命じ、鹿苑院主宝山乾珍(けんちん)は早速建仁寺に赴いて仏殿の仏像を拝し、本尊釈迦仏を大進法印、左右脇士を大蔵法印に決定しました。十一月七日義教は鹿苑院に至り、左右脇士である弥陀仏と弥勒仏の眼鼻口に自ら一刀を打ち込みました。相国寺再建にかける義教の熱意が手にとるようにわかりましょう。やがて永享八年三月仏殿はみごとに完成し、中央に釈迦、左弥陀、右弥勒の三尊仏がおごそかに開眼されました。そして尊氏の遺髪二茎を弥陀の、一茎を弥勒の髻中に納めたといいます。洛中五山の中で、仏殿に三仏を安置しているのは、相国寺と建仁寺だけでした。
永享十二年(一四四〇)十二月五日、山門が完成して慶讃会がおこなわれました。閣上に安置する十六羅漢は五体を義教が出資し、残り十一体は時の高僧が一体に付き十五貫ずつを出資して作りました。かくして相国寺の全容はほとんど整ったのでした。義教は恐らく大きな満足をおぼえたにちがいありません。閣懺法を聴聞しながら、義教の両頬を濡らすものがありました。それから六ヵ月後、義教は赤松満祐の反逆にあって、洛中赤松邸で殺されたのです。
相国寺の再建について、寺家側の努力も大変なものがありました。丁度このころ、相国寺に徳岩正盛(とくがんしょうせい)という人がいました。この僧は修造事業に献身しました。蔭涼軒日録によりますと、文正元年(一四六六)法界門が完成しました。その壮大な姿を仰ぎみに季瓊真蘂(きけいしんずい)は、「法界門の修造を清和院へ詣るついでに見た。一条通に厳として建つ法界門は、まさに相国寺の栄光である。正盛和尚の力量がなかったら、恐らくこんな立派なものは出来なかったろう。」と述べています。
しかし、応仁の乱はすぐに迫っていました。京都全土を焼き尽くす十一年間の戦乱によって、相国寺はひとたまりもなく全焼します。このような結果を知っている我々は、義教や正盛など多くの人々の努力が、全く徒労であったような気がし、それだけに痛ましい気がしてなりません。
義政の登場
嘉吉の乱によって、現職の義教将軍が殺されたことは、幕府の権威を著しく墜しました。それだけに、足利幕府にとっては大きな衝撃でした。しかし、嗣子義勝はわずか八歳でした。この頃京都では、連年土一揆が襲撃して、寺院や高利貸を破却するという物情騒然たるありさまでした。
嘉吉三年(一四四三)七月十一日。この日は初め晴れていましたが、夕方四時頃より俄に雷鳴がとどろき、雨が激しく地面をたたきつけました。数日前から大風が吹き荒れたり、賀茂神社の大木が、風の無いのに折れたり、人々の心を驚かす不吉な事変がしきりに起りました。何かありそうだ。不安顔の人々の耳にとどいたのは、この日突如義勝将軍が夭逝したという知らせでした。後崇光院は日記看聞御記に、「驚嘆極まりなし」と書きつけていますが、恐らく誰もがそう思ったでしょう。悲しみにつつまれた室町第の外では、しきりに群盗があばれ、二十二日から二十四日にかけて、連夜火災がおこり、三条から高辻あたりが焼亡しました。室町幕府の前途は、まさに暗雲たれこめる状態だったのです。
しかし、二十三日には早くも重臣達が集まって、後継将軍を決めました。義教の五男で、夭逝した義勝と同母兄弟であった「三歳(みどし)若君」が選ばれたのです。わずか八歳でした。この人こそ有名な八代将軍慈照院義政なのです。諸大名の反目、将軍の暗殺、土一揆の瀕発といった、前途暗澹たる幕府の屋台骨をかつぐには、あまりにも幼すぎ、運命とはいえかわいそうでした。彼はその運命に三十年間耐えました。耐えたというよりも、運命にもみしだかれて生きつづけたと云った方がいいかもしれません。後の評価によると、彼は必ずしも有徳な将軍ではなかったようです。とりわけ、彼に大きな責任のある応仁の乱は、十一年も京都を戦争の刧火でつつみ、王法仏法ことごとく滅亡といわれるほど荒廃させてしまったのです。もとより相国寺も東軍の屯所となって、ひとたまりもなく焼けました。そのようなとき、義政は東山の山荘(銀閣)にあって、風雅三昧の生活を送ったのです。
だが、義政にも深い内面的苦しみがあったのです。彼が、歴代将軍の中でも、もっとも足しげく禅寺に参詣しているのは、そのことを示しています。とりわけ義政は、花御所のすぐ東隣にあった相国寺に出入りし、相国寺の禅僧たちと親交をもちました。義政の前半生の心の師であった瑞渓周鳳、後半の師横川景三(おうせんけいさん)は、いずれも相国寺住持になっている人です。ですから、義政と相国寺の関係はまことに濃密であり、相国寺の歴史は、義政の生涯を考えずには語れないのです。そこでこれからややくわしく義政について述べてみたいと思います。
だが、その前に、室町時代の相国寺の寺内のしくみについて、若干ふれておきたいと思います。
叢林のしくみ1
相国寺や天龍寺のような五山大禅院を、一般に叢林と呼びます。叢林にはずい分多くの僧侶がいました。幕府は叢林における僧の員数を、三百五十人以内に限定していましたが、実際はこれよりはるかに多数の人数がいたようです。応安五年(一三七二)頃の東福寺には、普通の僧侶が六〇三人、沙弥喝食といわれる年少の小僧が三十人もいました。これに塔頭の僧侶や、力者火番といった寺男を加えれば、一山内の人数は七百人程度にのぼりましょう。相国寺も同じようなものでした。
叢林では、禅僧は西班、東班という両序に分かれていました。寺内で法会や秉払(ひんぼつ)でもある場合、法堂に出頭した僧達は、住持を中にはさんで東西に分かれて列位しました。西班は西側に並ぶのです。
西班には、首座(しゅそ)・書記・蔵主(ぞうす)・知客(しか)・浴司(よくす)・殿司(でんす)の六つの位階があり、これを六頭首(ちょうす)と呼びます。もちろん首座位が一番修行の積んだ古参僧です。
東班は、都寺(つうす)・監寺(かんす)・副司(ふうす)・維那(いの)・典座(てんぞ)・直歳(しっすい)の六つの位階に分かれ、これを六知事といいます。都寺の上に都聞(つうぶん)がおかれている禅寺もありました。
西班衆は主として修行のかたわら、疏偈(しょげ)という唱えものを作文したり、諷経(読経)・法会奠供準備などを任務としましたから、しぜん経典の研究、詩文の作製、朱子学の研究などにせいを出し、法式梵唄(ほっしきぼんばい)にも精通していました。従って、西班衆は学問的雰囲気をもっており、五山文学の師匠達はいずれも各山の西班から生まれたのです。
叢林のしくみ2
これに対し東班は、主として寺内の金銭出納・修理営繕・寺領管理などにあたっていましたから、経済観念にたけていました。その反面、これらの僧侶には学究的ムードは希薄でした。
一山の住持になるのは、例外なく西班でした。首座位の僧が秉払という関門を通過すると、一たん叢林外の住持として転出するのです。相国寺の場合ですと、真如寺とか等持院の住持になるのです。そのとき西堂の位がもらえます。そのうち推挙されて本寺の住持に帰ってきますと、東堂の位をもらうのです。東堂位をもつ禅僧は、禅宗界の最長老でした。首座からすぐさま叢林の住持になることはなかったようです。住持の任期は、相国寺ではほぼ一年でした。中には半年の人もいました。任期が満ちて退院すると、山内の塔頭に隠栖するのです。
東班では、相国寺普廣院の蔵集軒に止住していた得岩正盛都聞のように、高利貸や寺領経営が巧くて、大富裕の僧になったものはいましたが、瑞渓や横川のような五山文学僧はおりません。ただ、例外としてあの有名な画僧天章周文が相国寺の東班に籍をおいていました。如拙・周文・雪舟という偉大な水墨画家は、いずれも相国寺の生んだ禅僧なのですが、周文は画家としてのみでなく、東班僧としての経済的手腕にもすぐれていました。永享一二年(一四四〇)将軍義教が、相国寺総門上に安置する仁王像の着色見積もりを命じたとき、仏師が六百五貫文としたのに、周文はその半分の三百貫の見積もりを提出しています。いかにも東班僧らしい一面をみせていましょう。
さて、そのようなわけで、一般に西班は東班を少々見下していたようです。康富記という日記に次のような話がのっています。
「康正元年(一四五五)九月二十六日、相国寺では順渓等助の入院(じゅえん)の式が行なわれた。将軍義政公も出席された。式が終って義政公が帰られると、南禅寺以下の他山の長老たちは、食事もしないでさっさと帰ってしまった。そのわけは、相国寺の東班衆が、西班衆と一緒に同座して食事をさせてくれと要求し、順渓和尚がこれを許したからだ。このことを他山の諸長老達は不快に思って、食事もとらないで帰ってしまったのだ。そのため順渓和尚は逐電してしまった。」
上の記事によると、東班が蔑視されていたことがおわかりでしょう。しかし、義政のころになると、大スポンサーである幕府の力もおとろえ、寺領収入も思うにまかせなくなってしまいました。そのような相国寺で、よく一山大衆の生活を支え、寺内の修造に努力したのは東班僧ですから、大いに評価しなければなりません。
愛妾今参局1
前述のように、義政は嘉吉三年(一四四三)わずか八歳で将軍となり、三八歳で義尚にゆずるまで、三十年の長い間在職しました。しかも義尚が二十五歳という若さで死にますと、再び幕政をみなければなりませんでした。五十五歳の生涯を通じて、動揺する幕府の責任者として、重い圧力のもとで生きていかなければなりませんでした。義政は正直言って我儘者であり、気随者でした。歯がゆいほど優柔不断で、とらえどころのない不可解な人物でした。そのためでしょうか、有名な人物であり、史料も豊富に残っているわりに、人物伝を書く人が少ないのです。頭に浮かぶものとしては、中村直勝『東山殿義政私伝』(河原文庫)、河合正治『足利義政』(清水書院)、森田恭二『足利義政の研究』(和泉書院)があるくらいのものです。それは、義政がとても複雑な人物で、一見無目的的に生きた人物のように見え、これをとらえることが困難だからにほかなりません。しかし、相国寺の歴史を語る場合、どうしても義政にふれておかねばならないのです。
義政は一四歳になったとき、従五位上に叙せられ、それまでの三歳若君という呼称から、武士らしい義成(よししげ)という名に改めました。この時のことを、相国寺の瑞渓周鳳は、彼の日記である臥雲日件録の中で次のようにいってます。
「義満公は戊戍の歳に誕生された。君子のいうことには、戊戍の二字はいずれも戈という字から成り立っている。これは、武威をもって天下を平定する兆しであると。果たせるかなその言葉通りであった。いま幼君の名の義成もまた戈字から出来ている。だから必ずや義満公と同じように、武徳をあらわされることだろう。」
瑞渓の予想は果たしてあたったでしょうか。
少年の義成将軍を補佐した管領は、智将といわれた細川勝元でした。しかしいくら智将でも、その時はまだ若冠一七歳でしたから、義成を助けるのは無理だったのです。ですからしぜん母親の日野重子の発言が強く、かつ重臣侫臣がしきりに若い義成にとり入って、自分の力をのばそうとしました。そのような中で、若い女やオベンチャラ使いの近臣にとりかまれた少年義成が、次第に我儘で増上慢な人間になっていったのは無理からぬことでした。彼はすでに一五歳のとき、女子をもうけていますが、このことは、義成をめぐる淫靡な環境を想像できるでしょう。しかし、義成が自ら淫蕩を欲したのではなく、近臣たちによって女をあてがわれてそうなったのです。政治は義成の知らないところで、みにくい権力闘争をふくみながら展開されたのです。少年義成にとってすくいだったのは、この少年期に五山の巨匠に接して教養を高めたことです。この頃のかれが、信仰の立場から禅僧に接近した史証はありません。多分典雅な文学的サロンのムードを好んだのでしょう。竺雲等連・瑞渓周鳳・雲章一慶・心田清播などの錚々たる禅僧が、義政に接しています。
愛妾今参局2
享徳二年(一四五三)一八歳の義成は、名を義政と改めました。この頃の彼は、大館氏の女「お今」に夢中になっていました。真剣に愛していたのかもしれません。お今は今参局ともいい、才色兼備の女性だったのです。だが義政に寵愛されていることをよいことにして、次第に政治に口出しし、幕府の人事や諸大名の継嗣問題などにも有力な発言力をもつようになりました。雲泉大極(うんせんたいぎょく)の碧山日録によりますと、
「お今は日常正夫人をないがしろにして、みずから正妻のごとくふるまい、その気勢は燃えさかる炎のごとくで、近よりがたく、その行為は、ほとんど大臣の執事のごとくであり、そのうえ、やきもち焼きで、まったく始末におえなかった。」(勝野隆信氏訳)というひどい女でした。こんな女に左右された義政は不甲斐ない奴だ、というのが一般の定説ですが、義政にとってお今は、愛するに足る何物かをもっていたのでしょう。
世上では「三魔」という言葉がささやかれていました。烏丸資任・有馬持家・大館お今の三人を指すわけで、いずれも義政にとり入って、権勢をふるっている人でした。もとよりこの三人の他に日野勝光・伊勢貞親などという野心家もいました。
義政が二十歳になった夏、日野家から正室を迎えました。これが有名な日野富子です。一六歳でした。しかし、義政のお今に対する愛は変わっていなかったようです。富子が迎えられたその年に、お今は女の子を産んでいるのです。富子も勝気で行動的な女でした。やがて二人の女性の間には義政をめぐって激しい愛の葛藤が展開されるのです。恐らく富子との結婚は、義政の気のすすまないところだったと思われますが、すべては周囲のお膳立てによるものだったのです。義政が2人の女性の間に立ってオロオロしているのが眼にみえるようです。いかにも主体性のない男のように感ぜられ、源実朝のような悲愴さより、むしろ滑稽な感じがします。しかし、義政の内面には、将軍としてこれでいいのかという自責の念があったのではないでしょうか。
愛妾今参局3
長禄二年(二十三歳)になりますと、俄に義政の寺院参詣が多くなります。こころみに二月をしらべてみましょう。
六日 雲頂院(相国寺塔頭)
九日 大徳院(相国寺塔頭。のちの慈照院)
十一日 常德院(相国寺塔頭)
一五日 相国寺都聞寮
一八日 法住院(相国寺塔頭)
二一日 嘉隠軒(建仁寺塔頭)
二四日 蔭涼軒(相国寺塔頭鹿苑院)
二七日 万寿寺
二九日 建仁寺
三十日 西芳寺
この例のように、ほとんど月の三分の一は禅寺参詣になっており、その大部分が相国寺でした。長禄二年(一四五八)から多くなるといいましたが、あるいは相国寺の季瓊真蘂(きけいしんずい)の日記蔭涼軒日録が、途中とぎれていたのが、この年から再び書かれているせいでもあるかもしれません。義政はこれらの禅寺に行きますと、先ずお茶をのみ、仏前で焼香し、点心といって食事をとって帰るのです。その場合、たいてい御相伴衆(ごしょうばんしゅう)という禅僧がぞろぞろ同行しました。この頃の相伴僧は竺雲等連・瑞渓周鳳・順渓等助・徐江梵詳・季瓊真蘂といったいずれも相国寺の名僧たちでした。静かな禅院の書院で喫茶しながら、これら相伴衆たちと、庭園・書画・仏像・詩文・連歌・能・経典などについて清談を交わすことは、室町第における権力闘争や妻妾の葛藤というみにくい現実からしばらくでもはなれた、本当に心静まる一時だったにちがいありません。後年東山に山荘を造る構想は、この頃から彼の心に萌していたと思います。
長禄三年正月、結婚して五年目にして、富子は待望の赤子を生みました。義政のよろこびはいかばかりだったでしょう。しかしこのお産は死産にもひとしく、生まれるとすぐ死んでしまいました。義政夫妻はよろこびが大きかっただけに、悲しみと落たんは更に大きなものがありました。世間では、これは嫉妬に狂ったお今が呪い殺したのだとうわさが流れました。これを風聞した義政は逆上しました。たとえ愛妾でも許せなかったようです。義政は彼女を琵琶湖の沖ノ島へ流したのです。しかし富子はそれでも気がすみません。ひそかに家来に命じて殺させてしまったのです。私はお今を殺せなかった義政に、何か心の暖かさ、善良さを感じます。それに反し富子は、金属のような心の冷たさをおぼえます。こののち義政は富子にふりまわされて生きるのです。蔭涼軒日録によりますと、「一八日、不慮の儀により、御今上﨟逝去」と、さりげなく記されています。季瓊が富子に遠慮して多くを書かなかったのでしょう。二十四日雲沢軒でお今の初七日忌の施餓鬼が、ひそやかに行なわれました。このことを同じ日義政は等持院に参詣したときに知らされました。義政の頭には、どんな感懐が去来したでしょうか。
赤子の死は義政にとってショックでした。その悲しみを打ち消そうとするように、彼は前年から始めていた花の御所の復旧工事をいそぎました。長禄三年十一月完成しますと、その後は庭園づくりにこって、名木奇石を集めました。
長禄寛正の飢饉1
義政が室町第の造作を急いでいた長禄三年(一四五九)は、天候不順でした。九月には颱風が襲来し、賀茂川は氾濫し、京中溺死者は大へんな数にのぼりました。京都への米は入らず、米価は暴騰して餓死者がでるありさまでした。土一揆も瀕発しました。翌長禄四年は、更に天候不順がひどく、ひでりで、全国的に猛烈な飢饉となりました。いわゆる長禄寛正の飢饉です。各地で餓死者が続出し、人肉を食うという地獄絵図が展開されたのです。大極蔵主の碧山日録長禄四年三月十六日条を紹介いたしましょう。
「春公の招きに赴き、日がくれてから帰ると、六条町で一人の老女が子供を抱いてしきりに名前を呼んでいた。しかし何度呼んでも子供は返事をしないので、女はワッと声をあげて哭き伏した。私が子供を見ると、すでに死んでいた。母親は激しく慟哭しつづけていた。そのとき道行くひとが、『どこの者か』とたづねると、『河内の流民です。三年ひでりが続いて、稲が実らないのに、役人は重税をかけました。もし出さないと刑罰を加えるのです。しかたなく他国を流浪して食を乞うて歩きましたが、遂にそれも極わまって、この子は餓死してしまいました。』語り終わると再び泣き伏すのだった。私はふところから金(小遣い銭)のあまりを出して与え、『お前はこの金で男をやとって葬りなさい。私は自坊へ帰って三帰戒(さんぎかい)を授け、安名(あんみょう)して冥福を祈ってあげよう。』というと、母親は大層よろこんでくれた。私の胸中にはなお悲しみの情と怒りがこみあげてならなかった。そのときたまたま貴公子が花見から帰る行列にあった。たくさんの従者を従え、道行く人を傲岸に見すえながら爛酔狂歌し、あるものはヘドを吐き出す狂態であった。これを見るものは皆寒々とした気持ちになった。」
引用が長引きましたが、大極という禅僧は立派です。大徳寺の一休和尚も又次のように記しています。
「長禄四年八月晦日、大風洪水、衆人皆憂う、夜、遊宴歌吹の客あり、これを聞くにしのびず。
大風洪水万民憂(大風洪水万民の憂)、
歌舞管弦誰夜遊(歌舞管弦誰が夜遊ぞ)、
法有興衰劫増減(法に興衰あり劫に増減)、
任他明月下西楼(さもあらばあれ明月の西楼に下るを)」
長禄寛正の飢饉2
死者の数は毎日増え続け、京都だけでも一日に三百、あるいは六・七百をかぞえました。四条・五条の橋下には累々たる死骸の山ができました。その時幕府は一体何をしたでしょう。少なくとも史料の上では、五山に命じて施餓鬼法要をいとなませただけでした。義政は相変わらず寺院御成と邸宅の修造にあけくれていました。一方五山では、河原施食といって、飢民にたき出しをしていますが、これも一時的なもので、広大無辺の菩堤心をおこして、幕政を痛憤し、救済に挺身した僧は相国寺をはじめとする五山には見当たりません。
それのみか、相国寺蔭涼軒の季瓊真蘂は、その日記蔭涼軒日録の寛正二年六月四日の条に、つぎのように書きつけています。
「久しく雨降り洪水、洛中の死屍の悪臭を洗滌するなり。快なるかな」
たしかに悪臭たちこめる京中が、大雨によって洗われればスーッとするでしょう。しかし、大慈悲心をもたねばならぬ禅僧の云うべき言葉でしょうか。季瓊和尚は民衆を忘れています。だが、民衆をもっと忘れているのは義政です。二十四・五歳の青年の彼なら、もっと正義とヒューマニズムを感じてよかったはずです。このような義政に対し、黙視できなかった後花園天皇は、一篇の詩をおくって諫められました。
残民争い採る首陽の蕨
処々炉を閉し、竹扉を鎖ざす
詩興の吟は酸し春二月
満城の紅緑誰か為に肥ゆる
義政がどれほど恐懼したかはわかりません。しかし、わがままなこの青年を導かねばならぬ相国寺の名衲達にも大きな責任がありましょう。かつての義満に対する義堂や春屋のごときは残念ながらいなかったのです。
応仁の大乱はもう数年後に迫っていました。
応仁の乱1
私は義政将軍のことを書きすぎるかもしれません。しかし、相国寺と義政は精神的にも物質的にも、非常に大きなパイプで結ばれていましたから、彼のことを詳しく知っておかねばならないのです。
義政と日野富子は結婚して五年目に待望の嫡子をもうけました。だが不幸にして生まれるとすぐなくなりました。それ以後子供にめぐまれなかった義政は、弟で浄土寺門跡になっていた義尋僧正をむりやり還俗させ、義視となのらせて後継者としました。管領細川勝元が後見人となり、もし義政に男子が生まれても、義視の立場は変わらないことが約束されました。それは寛正五年(一四六四)のことで、義政二十九歳、富子二十五歳のときでしたから、まだまだ若い夫婦だったのです。それなのに、富子と同じ二十五歳の義視を、なぜむりやり養子にしなければならなかったのか。永原慶二氏はこのことについて、彼が八歳から三十歳近くまで実に二十数年間も将軍職にあり、その間、細川、山名、畠山などの有力大名にひきまわされて、すっかり疲れてしまったので、いっそ早く職をゆずって、祖父義満のように自由の身で風流を楽しもうとしたのではないか、といっています。(『日本の歴史』10中央公論社)義政は本当に政治にあきていました。 継嗣ができて安心した義政は、翌寛正六年三月四日、素晴らしく豪華な花見の宴を花頂山で開きました。相国寺の季瓊和尚の日録によりますと、「華麗目を奪う、天下観を改む、皆曰う一代の奇事也」と記しています。花頂山上で彼が作った発句は、
咲満ちて花より外の色もなし
というものでした。義政の心に久しぶりの充実感があふれていました。
だがなんという運命のいたずらでしょう。花頂山の花見の宴に随従した富子の体内には、すでに義政の子が宿っていたのです。七月二十日夜、富子は玉のような男子を生みました。この子がのちの九代将軍義尚になるのです。義尚の誕生によって、幕府内の様子は一変しました。義視の立場が微妙になったのです。もとより義視を還俗させるとき、たとえ男子が生まれても、すぐ出家させるからという条件でした。しかし、富子は自分の腹を痛めた義尚を是が非でも義政の後嗣にしたかったのです。そこで、当時天下を二分していた実力者山名宗全にたのんで、義尚の将軍職継嗣を実現させようとしました。こうして、義視とその後見人勝元、義尚とその後見人宗全の間に大きな対立が生まれたのです。もっとも、勝元と宗全とは以前から対立しており、他の武将もそのいずれかについていたのですが、義尚の誕生によって、両者の対立はいよいよ深刻になってきました。義政の心情も複雑に揺れ動きました。 かわいい我が子を将軍にしたい気はやまやまでしたが、他方義視との間に交わした男の約束をムゲに破ることもできなかったのです。だから彼は、この対立の渦中にあって、旗色を鮮明にせず、あいまいな態度をとりつづけました。だがそのことは、武将達をはじめ、妻富子の信頼すら失っていくことになったのです。
応仁の乱2
応仁元年(一四六七)正月一八日、相国寺北隣の上御霊社の杜で、遂に細川方と山名方の武力衝突が起りました。かくて都を十一年間も焼き尽くす応仁の乱が始まったのです。山名宗全は十一万六千の兵を集め、五辻通大宮東の宗全邸を中心に陣をはり、西軍と呼ばれました。西軍の陣所が「西陣」という地名になったのです。細川勝元は一六万一五〇〇人の軍勢を集め、東軍と呼ばれました。勝元は当時幕府の管領でしたから、その本営は室町幕府を中心にした地域です。だから東隣の相国寺は当然東軍の陣所になったのです。このように東西両軍三十万人近くの軍勢が都にひしめきあい戦ったのですから、洛中はひとたまりもなく荒廃してしまいました。応仁元年、秋風の立つ十月頃には、洛中の主な社寺や公家邸は焼き払われてしまいました。だが、相国寺は残っていたのです。室町御所を守るためには、相国寺は重要な防御拠点ですから、細川軍も必死に守ったのです。逆に西隣から云えば、相国寺を焼けば、西軍の幕府を陥すことは簡単なのです。 十月三日、西軍は激しく相国寺を攻撃しました。東軍も惣門、西門などを固めて懸命に防ぎました。ところが、寺内の僧の中に山名方に内通する者がいて、内部から放火したのです。かくて義教らによって復興整備された堂塔伽藍は、ほとんどすべて焼き払われたのです。この日の相国寺の合戦は激烈を極めたようです。応仁記によると、西軍は討ち取った首を車八台に積んで西陣へ帰還したといいます。相国寺の蓮池(功德池)も、流血で真赤に染まったことでしょう。相国寺が陥れば、西隣の幕府も危険になります。日頃相国寺参詣をおこたらなかった義政は、大きな驚きと悲しみにつつまれたことでしょう。
ハカナクモ 猶オサマレト オモフカナ 角乱レタル 世ヲハイトハテ
と詠じたといいます。しかし、義政はおのれの事で起ったといってもよいこの不幸な戦乱を、なんとかおさめようとする努力に全く欠けていました。むしろ「乱レタル世」をいとって、自己中心の安逸の世界にますます沈潜してしまうのです。文明二年(一四七〇)には、わずかに焼け残った相国寺大塔が、落雷のために焼失しました。相国寺にとっては先後に比をみない苦難の時節でした。果たしてかつての栄光の相国寺は復活するのでしょうか。この苦節に、相国寺の僧として雄々しくたちあがるのは、当代の禅匠瑞渓周鳳でした。彼についてはあとで詳述することにします。
さて、十一年も続いた応仁の乱は、洛中全土を焼きました。焼跡に立った飯尾彦六左衛門尉は、
ナレヤ知ル 都ハ野辺ノ 夕雲雀 アガルヲ見テモ 落ル涙ハ
と涙ながらに詠じています。焼跡には雲雀が飛びかう程の荒涼たるありさまだったのです。
文明五年(一四七二)九歳になった義尚は、遂に将軍職を襲いました。富子の執念が叶ったのです。しかし、この頃から義政と富子の間は急速に冷たくなっていきました。義尚もまた父になつきませんでした。妻子から見すてられ、多くの武将からも疎んぜられた義政は、失意と孤独の中でますます自閉的・内向的になっていきました。
東山山荘
戦乱は一応文明九年(一四七七)に終りました。もちろん余燼はくすぶり続け、戦火は地方へと広がっていきました。
義政が東山に山荘を作ろうとして、土地を物色しはじめたのは、応仁の乱が起るより前からでした。さすが乱中には、山荘造営の計画を中止していたのですが、乱が終ってまもなく、文明一四年義政は東山浄土寺山麓に、念願の山荘造営を始めたのです。これを単なる彼のぜいたくで我儘な心からだと責めるのは一方的です。先にも述べた通り、乱世の中で妻子からも、諸大名からもあいそづかしされた孤独な義政が、魂の安住の地を求めて造ろうとしたのです。乱後の荒廃と疲弊の中で行なう土木工事が、どれほど困難で、人々に迷惑をかけるものであったかは明白です。けれども、義政は異常な執念で遂行していくのです。翌文明一五年(一四八三)六月、常御所ができると、彼はさっそくそこに移り住み、東山殿と呼ばれるようになります。工事はほとんど十年の歳月を要しました。その間に、観音殿(銀閣)・持仏堂(東求堂)・常御所・西指庵・会所・泉殿(弄清殿)・竹亭(漱蘚亭)・船舎(夜泊船)・亭橋(竜背庵)・釣秋亭・御末・台所・総門などが次々と造られていきました。豪華な中にも禅的な枯淡のあじわいが色こくあらわれている建物でした。だが、義政が死ぬまでにこれらが完成したわけではありません。 有名な銀閣(観音殿)が上棟式をあげたのは、延德元年(一四七九)のことでした。義政にとって、銀閣がもっとも重要な建物だったはずです。その壁面には、義満の金閣にちなんで銀箔をはろうと考えていたようです。ただ銀閣の上棟に先だって、彼の子義尚が、二十五歳の若さで近江鈎(まがり)の陣所でなくなったことは、やはり大きな悲しみでした。義尚は富子のさしがねもあってか、父義政によりつこうとしなかったのですが、それでも実子を失った衝撃は大きかったのです。だが、不幸は義政に更に追いうちをかけました。十月八日夜、彼は中風の再発によって左半身が不随となってしましました。そして翌延德二年(一四九〇)正月七日、横川景三、亀泉集証といった五・六人の相国寺の僧の見守る中で、淋しく死んでいったのでした。五十六歳でした。臨終の枕頭に、富子は遂にあらわれませんでした。慈照院殿准三后贈大相国一品喜山道慶大禅定門とおくりなされ、相国寺塔頭大德院を慈照院と改め、ここに位牌を安置しました。
東山山荘は義政の生前には完成を見ませんでした。銀沙灘や向月台の庭園も未完成でしたし、銀閣も銀箔を張らずのままになってしまいました。義政の無念はいかばかりだったでしょう。五十六年の波乱にとみ、しかも悲劇的生涯だった彼にとって、山荘造営は妄執にも近い願いであったはずだからです。
東山山荘は義政の死後、直ちに寺となり、慈照寺(銀閣寺)と呼ばれます。今は鹿苑寺(金閣寺)と並んで相国寺の二大末寺になっています。現存する建物は銀閣と東求堂で、いずれも大変有名です。銀閣は二層の建物で、第一層は心空殿、第二層は潮音閣と名付けられています。東求堂は我国の書院造りのもっとも古い構造で、内部の同仁斎は茶室建築の最古のものだといわれています。
一方、劫火に焼かれた相国寺の復興はどうだったでしょうか。次はそのことについて述べたいと思います。
瑞渓周鳳1
前にも述べましたように、応仁元年(一四六七)正月勃発した大乱のために、相国寺の七堂伽藍や諸塔頭は、ことごとく焼け落ちてしまいました。
これより先、応永三十二年(一四二五)の災禍によって回禄した相国寺が、将軍義持・義教・義政はじめ、多くの人の努力によって、漸く復興したのは文正元年(一四六六)のことでした。実に四十二年の長い歳月を要したのです。応仁の大乱によって再び焼失したのは、そのたった一年あとのことでした。義政の失望、一山の悲嘆はいかばかりだったでしょう。義政はほとんど毎日のように相国寺に参詣していました。権媒術数に明けくれるどす黒い幕閣の中に生活している彼にとって、相国寺の雰囲気は、唯一の心の安らぎの場であったに違いありません。それが、自分自身の問題が原因で起った大乱によって、無残にも灰燼に帰してしまったのですから、恐らく自責の念に苦しんだことでしょう。だからなんとかして復興しようと努力しました。しかし、再建は容易なことではありませんでした。戦乱は十一年間も都で続きました。だから、再建に努力すべき禅僧たちは、それよりもわが身の安全を考えねばなりませんでした。最大のパトロンであった将軍の権威も、大乱勃発以後急速におとろえ、昔日のおもかげはまったくなくなりました。相国寺の所有していた寺領も、地方武士によってどんどん侵略されていきました。 それを禁止しようとする幕府の命令も、一向にききめがなかったのです。相国寺再建の条件は最低だったのです。
このようなきびしい周囲の中で、応仁元年瑞渓は三たび僧録司に任命されました。彼はすでに七十七歳の高齢でした。僧録司についてはすでに述べたことがありましたが、相国寺塔頭の鹿苑院に住し、禅宗界全体を統括し、幕府との間のパイプ役をつとめる重要なポストです。そのポストに三度任ぜられたことは、瑞渓の力量識見、それに政治的手腕が卓絶していたからにほかなりません。絶海中津以後、相国寺の生んだ最大の禅傑であったといってよいでしょう。老体にむちうって登場した彼の脳裏には、なによりも先ず相国寺の再建という課題があったはずです。
瑞渓は明徳三年(一三九二)一二月八日、泉州堺に生まれました。その日はまさに釈尊成道の日でした。彼には生まれながらの仏縁があったのです。やがて応永の乱(一三九九)が起り、父を失いました。十歳のとき出家し、一四歳のとき、夢窓国師の直弟子、無求周伸に参禅し、相国寺の僧となりました。彼が二十三歳のとき、師の無求が示寂しましたので、その後は専ら厳中和尚に随時して教誨をうけました。永い参禅修道の間に、次第に禅の奥旨を極めていきました。
瑞渓周鳳2
永享八年(一四三六)四十六歳の夏、たまたま相国寺に参詣した将軍義教に面謁する機会を得ました。蔭涼軒主季瓊和尚の紹介でした。義教は一目見るなり、瑞渓を「有道の衲子」と看破し、それ以来目をかけるようになりました。この年彼は山城景德寺の住持に任ぜられ、翌年には十刹の一つ等持寺に住し、永享十二年(一四四〇)には遂にあこがれの相国寺に入寺しました。五十歳のときです。もとより義教の強い推挙があったからでしょう。瑞渓を尊崇し、面倒をみてくれた義教は、翌年6月家臣赤松満祐のために非業の死をとげました。(嘉吉の変)彼は翌月相国寺を退院して、寺の北辺に寿量軒を造って隠退しました。嘉吉の変は瑞渓にとって大きなショックだったのです。
だが、文安三年(一四四六)鹿苑院の院主(いんず)に任ぜられ、僧録司という禅宗界最高の地位につきました。僧録司になるためには、禅の力量、学識のほかに、政治的手腕も必要です。その点で瑞渓は義堂や絶海に劣らぬ政治感覚をもっていました。すでに永享十一年、関東で起った上杉禅秀の乱の後始末のため、義教の命をうけて関東に下向しているくらいです。彼は前後三回も僧録司に任ぜられています。
その頃の相国寺には、詩文にすぐれ、朱子学に長じた禅僧がたくさん輩出していました。横川景三・桃源瑞仙・景除周麟(けいじょしゅうりん)・維馨梵桂(いけいぼんけい)など、彼らのほとんどが、戦火をさけて地方に疎開してしまいました。一番長老級の瑞渓だけは、この乱中にあっても都から去らなかったのです。ピンチに立っても相国寺を死守せねばならぬという不退転の決意があったのです。
文明三年(一四七一)瑞渓は後土御門天皇より召し出され、生前の国師号を特賜されました。しかし彼は、国師号も紫衣も固く辞退して、決して受けようとしませんでした。彼はかわりに派祖夢窓国師の頂相(ちんぞう)をもって参内し、夢窓の追諡を求めました。天皇は夢窓の影前で受業し、大円国師の諡(おくりな)を与えました。このようにして、夢窓疎石は七人の天皇から国師号をおくられ、夢窓(後醍醐)正覚(光明)心宗(光厳)普済(後光厳)玄猶(後円融)仏統(後花園)大円(後土御門)国師と称されることになります。
文明五年将軍義政は、義教の三十三回忌のため、焼けた普廣院を陣中に建立し、瑞渓に陞座説法を求めました。しかし、その大任を果たすより一カ月前、八十八歳で示寂しました。行実録によりますと、五月八日朝談笑しながら自若として座逝した、とあります。八十八年の生涯は、栄光でもありましたが、晩年の彼は、一山の盛衰を一人で背負った苦しいものでした。相国寺の再建は遅々としてすすまず、気にかけながら示寂したにちがいありません。文明一四年、後花園天皇は興宗明教禅師の追号を与えられましたが、まことに彼の生涯を表しているように思えます。彼にはすぐれた詩文集や日明外交書集などの著作が残っています。
乱後の再建
瑞渓の死んだ文明五年ごろには、相国寺の山内はまだ荒廃の状態でした。鹿苑院など二・三の塔頭が再建された程度だっただろうと思います。
文明九年、長い大乱はようやく終わりをつげました。翌年十月二十一日、相国寺の法堂の立柱上棟式が行なわれ、ようやく十一年ぶりに本格的再建が軌道にのったようです。
十一月一五日、京都の冬空は久しぶりに快晴でした。この日維馨梵桂が相国寺に入院し、新しい法堂で祝聖開山諷経が行なわれました。大乱以来始めてのことでした。御成した義政の感がいも一しおのものがありました。
法堂という一山の中心が建てられると、その後は順次伽藍が整備されていったと思われます。ところが、文明十一年九月二十九日、建ったばかりの方丈がまたまた全焼しました。蜷川親元の日記には、「子の刻ばかりに火事があった。驚いて見ると、新造の相国寺方丈ではないか。盗人の所為とのことだ。造ってからいくばくもないのに。不便なことだ。」と、痛々しい気持ちをこめて書きつづっています。本当に相国寺の歴史は、火災の歴史といってもいいほどです。
それでも、文明一七年横川景三が相国寺に入院した頃には、法堂・方丈のほか、惣門、山門、土地堂などが不完全ながらも再建されていたようです。
ところが、この年の八月、京都に攻め入った土一揆は、十二日夜には、東門前に迫りました。門前衆が立ち上がってこれを追っ払ってくれましたが、相国寺内でも鐘を撞きならし、諸院の僧に召集をかけました。この時は何事もなくてすみましたが、一体なぜ相国寺は土民に襲われなければならなかったのでしょうか。もちろん相国寺だけが襲われたのではありません。東寺などもひどいめにあっています。その原因を考えることは重要です。土一揆は何を強訴したのでしょう。それは借金の棒引きであったにちがいありません。大きな禅宗寺院の中には、祠堂銭興行ということをやっている寺がありました。一種の金貸行為です。土民達は、借金で苦しくなると、京都の高利貸を襲撃しました。相国寺もまた祠堂銭興行という金融をやっており、そのため土民の襲撃を受けたのでしょう。大乱の後、寺領を次々と失った相国寺が、再建資金の調達のため、利銭行為をやっていたのかもしれません。
乱後の再建
延徳二年(一四九〇)正月二十三日、等持寺において義政の葬儀が行なわれ、義政の弟義視(今出川殿)も参列しました。そのとき、義視と相国寺の蔭涼軒主亀泉和尚との間で、次のような会話がとりかわされました。
義視「乱後、京都の五山は皆廃壊したのか」
亀泉「その通りでございます。中でも相国寺の荒廃が一番ひどうございます。」
義視「殿堂はいくつあるのか」
亀泉「かりの法堂一つです。仏殿も法堂で代用しています」
義視「寺領はどのくらいあるのか」
亀泉「四十ヶ所ばかりです」
義視「何国にあるのか」
亀泉「東国西国あちこちにあります」
義視「山城国にもあるのか」
亀泉「寺田庄があります。しかしながら、乱後実際に知行できるのは、わずか七・八ヶ所のみです。あとはみんな不知行地です」
これを聞いて義視は長嘆息するばかりでした。二月二十三日義政の四十九日忌が相国寺山内の鹿苑院で行なわれたときも、義視は亀泉にいろいろ相国寺のことについてたずねています。亀泉は、乱前には1千人近い僧がいたのに、今ではわずかに二百人たらずになったと嘆いています。それに対し義視は、再建のために、諸大名に伽藍諸堂を一つずつ建てさせてはどうか、又、遺明船を派遣して、その利益を寄進しようなどと、好意的なことをいっていますが、義視にはそれを実行する力はなかったのです。しかもこの義視も、翌年薨じてしまったのです。
世はすでに戦国時代に突入してしまいました。群雄は各地に割拠し、もはや将軍の命など聞くものはいなかったのです。実力だけがものをいう弱肉強食の世には、将軍の地位など荒波にもまれる小船のごとき存在だったのです。この将軍を最大のパトロンとしていた相国寺も、同じように荒波にもみしだかれなければなりませんでした。早く新しい時代に順応しなければなりません。遅々として進まぬ復興事業はいったいどうなるのでしょうか。
天文の災厄
応仁の大乱によって灰燼に帰した相国寺は、その後なかなか復興できませんでした。その大きな理由は、今まで最大の外護者であった足利将軍家が、急速に力を失い、そして将軍を取りまく有力な大名達も、その多くは内部分裂や下尅上によって没落したことでした。その上政情が不安で、京都ではしょっちゅう小ぜりあいが起こり、せっかく建てた堂宇が、すぐ焼かれるというありさまでした。それでも四十年ほどのちの永正五年(一五〇八)ごろには、ほとんど元の姿に復興していたようです。だが、このころは戦国時代の最中で、兵火にあう危険性は十分にありました。現にこの年には、中国地方の大内義興が、前将軍足利義稙(よしたね)を奉じて上洛し、現将軍義澄を追放しようとしました。船岡山の合戦という有名な激戦はこうして勃発するのです。さいわい相国寺は無事でしたが、常に戦火の危機にさらされていたのです。その恐れが、遂に現実のものとなってやってきました。
天文二十年(一五五一)七月のことです。当時、管領細川家では、当主晴元に対し、家臣の三好長慶が叛き、互いに争っていました。晴元は将軍義輝らと近江国に逃れていたのですが、なんとしても京都を回復したいと思い、七月一四日晴元の部将三好政勝・香西元成ら三千余人は坂本から京に入り、相国寺に陣どりました。前にも述べたのですが、市街地で戦争する場合、寺院がもっとも恰好の陣所となるのです。これに対し、三好長慶は部将松永久秀・長頼兄弟をもって相国寺を攻撃させ、両軍は石橋をはさんで激しく戦いました。「万年編年精要」という本によりまうと、昼下がりから夕方まで戦ったとのことです。やがて塔頭雲頂院から火の手があがりました。火焔はみるみる拡がって、鹿苑院・普廣院・大智院・法住院に及び、更に方丈から法堂まで燃え移り、山内ほとんど焼けてしまいました。三好軍が火を放ったことになっていますが、そのため細川方は敗走しました。相国寺はまたしても烏有(うゆう)に帰してしまいました。武家内部の私闘によって、勝手に火をかけられたのではたまったものではありません。これまでの相国寺の歴史は、ある面では火災の歴史でした。内部からの出火二回、兵火によるもの二回、二百年ほどの間に四回も全焼しているのです。
天文の災厄
相国寺の衰退
天文二十二年三月一八日、方丈の地鎮祭が行なわれ、再建が始まったのですが、情勢がきびしいだけに遅々として進まなかったようです。この時の相国寺住持は、第九十一世仁如集堯和尚という学僧でしたが、彼は五年後の永禄元年閏六月一六日の立秋の日に、つくづく近懐を次のように述べています。「この頃天下騒乱、気候の変遷にも気づかぬほどだ。毎日毎日は兵事を談ずるのみである。」四季の遷り変わりに気づかぬほど、天下は争乱の風が吹き荒れていました。再建がその後どのように進んだかわかりません。ただ、永禄二年三月十一日に、天下の暴れ者三好長慶が、慈照院に武家衆を招いて、終日大酒宴を催したという記録がありますから、この頃はかなり復興していたかも知れません。それから一四年後、天正二年元日には、織田信長が軍勢をひきつれて相国寺に至り、一山大衆を悉く追い出してここを陣所としました。更に天正四年四月十日から同一三年三月五日に至る間、信長は塔頭鹿苑院の敷地を没収してしまいました。鹿苑院を没収されたことは、この院内にある天下僧録の権限が、否定されたも同じことでした。斜陽の相国寺に追い討ちをかけたようなものです。
承兌の出現
憂色濃い相国寺を救ったのは、西笑承兌(じょうたい)和尚の出現でした。まことに承兌和尚こそは、相国寺中興の祖というべき傑僧でした。
承兌は天文一七年(一五四八)に生まれ、夢窓派の中華承舜に拝塔嗣法し、仁如集堯に学んで詩文の学識を身につけました。近世儒学の祖として天下に名を博した藤原惺窩も、若いときは相国寺に掛搭(かとう)していましたが、承兌は惺窩と研鑚しあって、一段と学問に磨きをかけました。承兌は一般には兌長老と呼ばれたらしく、宣教師パジェスの日本耶蘇教史にも、Taichoroと書かれています。兌長老は天正一二年相国寺九十二世住持に出世しました。そして翌一三年からは、鹿苑院の院主となって、天下の僧禄を預かりました。といっても僧録司には昔日の権威はなくなっていました。ただ兌長老にとって幸運なことに、さきに信長に没収された鹿苑院の地がこの年返還されたことです。信長はすでに本能寺の変で死去し、豊臣秀吉がこの年関白に栄進しました。兌長老が秀吉に見出されたのは、彼が鹿苑院主のときでした。秀吉がどんな経緯で兌長老を知るようになったかわかりません。
ところで、武家が政権を握ったとき、学者を側近につけるのが一般的です。さきに義満には、絶海中津や三宝院満済がいましたし、徳川家康には金地院崇伝や天海がいました。秀吉も学者を求めました。当時学者といえば、五山の禅僧がその代表者です。こういった秀吉の意図から、学識文才がようやく知られるようになった兌長老が、秀吉の側近になったのでしょう。
承兌の出現
外交文書を掌る
吉は周知のように、天正一八年小田原征伐によって、天下を平定しますと、海外制覇の夢をいだきます。そのため、インドのゴアにあるポルトガル総督府や、ルソンのイスパニア総督府に対し、しきりに入貢をすすめる書状を出していますが、その文書の作成は兌長老が行いました。特にゴアへ送った書簡は、秀吉の外交方針を明白適切に示したもので、内容にふさわしく、文章もすこぶる雄渾な名文だといわれています。このように承兌和尚は外交文書の作成という面で、秀吉に重用されました。そのことが相国寺の立場を非常に有利にしたことは否めません。僧録司としての承兌は、秀吉のバックアップもあって、天下社寺のことは、おおむね彼の一存でどうにでもなったといわれます。文禄元年(一五九一)秀吉は第一回の朝鮮遠征を行います。秀吉も自ら肥前の名護屋に出かけました。そのとき、群臣がしきりに秀吉に忠告しました。
「殿下、名護屋に在って、はるかに朝鮮に大軍を出せば、明国や朝鮮からさだめし書状がしばしば到来するでしょう。文才のあるものを同行されたがよろしかろうと存じます。そうでなければ、書状が来ても十分文意がわかりませぬ。」
秀吉が言いました。
「余は大明人や朝鮮人に、おのれの国の文字をやめさせて、吾国の『いろは』を用いさせようと思ってる。なんの難しいことがあろうか。だから学者など連れて行くつもりはない。」
いかにも秀吉らしい壮快な言葉です。しかし秀吉は、その夜翻意して、結局承兌和尚と南禅寺の霊三、東福寺の永哲の三人を同行して九州に下りました。
文禄の役は一応吾が国の勝利に終わりました。やがて慶長元年(一五九六)九月一日、明の講和使節が皇帝の国書を持ってやってきました。これを秀吉の前で読み上げたのは、兌長老でした。書面を事前に見た小西行長は、びっくりしました。このまま読んだら秀吉は激怒するにちがいないと思った行長は、兌長老に適当に変えて読むようにたのみましたが、兌長老はどうしても聞き容れませんでした。そして問題の「封爾為日本国王」(なんじを封じて日本国王となす)の部分を読み上げると、果たせるかな秀吉は憤怒して書状を投げ捨て、直ちに第二回の朝鮮遠征を断行するのです。
兌長老は、そのほか慶長二年八月には、秀吉の命により征韓の役の戦没者大施餓鬼を行ったり、秀吉の造った伏見の茶屋に、「学問所の記」という名文を草したりしました。
家康に用いられる
秀吉がなくなると、家康に従いました。このあたりの変わり身の早さは、兌長老の生来もちあわせた政治的感覚でしょう。そして家康の命によって朝鮮との講和のことに努力し、また御朱印貿易をもつかさどりました。
一方、内政面でもかなり深入りしています。関ヶ原合戦の前夜、かつて親交のあった上杉景勝の家老直江兼続に書状を送り、景勝の過失を列挙して、速やかに上洛して家康に陳謝するよう求めています。兼続はこれに対し、いちいち反駁し、逆に家康を非難しましたから、これが直接の動機となって、家康の上杉征伐となるのです。いってみれば、関ヶ原合戦の口火を切ったのは、兌長老の出した手紙だったといえましょう。
兌長老はそのほか家康の文化事業にも協力し、貞観政要・周易・吾妻鏡を印行し、各々その跋文を作っています。又、しばしば宮中にも出入りし、和漢連句の席につらなったり、後陽成天皇と囲碁をしたこともありました。
相国寺の復興
こうして公武の間に重用され、そのあふれるような学才と政治的手腕によって、寺社行政の上にも辣腕を振るいました。このことは衰退の相国寺にとってはまたとない幸運でした。再興もはかばかしく進まない相国寺を何とかしようと思った兌長老は、秀吉や家康に対し機会あるごとに懇願したに違いありません。そのおかげで、豊臣秀頼の発願-その背後で家康がすすめている-によって、米1万5千石が寄付され、法堂が再建されることになりました。慶長十年十月八日盛大な落慶供養が行われたのですが、それは丁度相国寺3世空谷明応(常光国師)二百年遠諱の正当でした。現在広い境内の真ん中に、堂々とそそり立つ法堂こそ、この時に建立されたものなのです。従って、この法堂はおよそ三七〇年の歴史を秘めていることになります。続いて家康は、米二万石を寄付して三門(山門)を建立しました。十一年二月に着工し、一四年四月三日に慶讃式が挙げられました。だが、残念なことに、兌長老は完成された三門を見ることなく、慶長一二年一二月二十七日六十歳で遷化しました。承兌の風評
承兌和尚が相国寺に尽くした功績は、これ以上述べる必要はありますまい。彼は主として養源院に起居していたようですが、秀吉が死んだとき、その追善のため豊光寺を建て、また自分の塔所(たっしょ)として心華院を創(はじ)めています。このように承兌は聖俗二界に活躍したのですが、京都の町では彼のことを悪しざまにいう人もいたようです。当代記という書物の中に、次のようかかかれています。「相国寺長老承兌は、当時家康公と大層気が合っていた。洛中洛外の寺院の訴訟など一手に司っていた。その上、金閣以下数カ寺を押領してしまった。去年の秋より発病し、この頃死去した。僧というのは形ばかりで、すでに成人した子息があるということだ。このことで、京中ではもっぱら嘲哢している。金銀の貯えも甚だ多いという。」
当代記がかなり信頼できる文献だけに、少々気になるところです。黒衣の宰相といわれる人々が、常に一方では非難されたように、承兌もまた、秀吉・家康二代の帷幄に加わって、政治的手腕を振ったが故に、かかる悪口を免れることが出来なかったのです。
ともあれ相国寺は承兌和尚のおかげで復興し、天下禅林の中枢的地位を維持することが出来ました。だが、かかる相国寺をいまいましく思い、いつかは僧録の権限を奪い取ろうと、機会を狙っているものがいました。それは南禅寺金地院の以心崇伝だったのです。
崇伝の登場
西笑承兌和尚が遷化したとき、南禅寺の住持は金地院の以心崇伝でした。崇伝は永禄一二年(一五六九)、将軍足利義輝の臣、一色秀勝の第二子として生まれました。足利幕府が滅亡すると、四歳の彼は、南禅寺の玄圃霊三にあずけられ、禅僧として養育されました。
崇伝は霊三のほか、相国寺の承兌にも親しく鉗槌をうけ、弁道工夫に専念したようです。というのは、「鹿苑日録」という相国寺僧の日記によりますと、慶長十一年(一六〇六)七月五日、南禅寺で法堂供養が行われたのですが、出席した承兌はその作法が見苦しかったといって、崇伝を厳しく叱っています。このことは、承兌と崇伝が極めて密接な師弟関係にあったことを物語っています。
前回にも述べたように、承兌は秀吉に重用され、秀吉亡き後は家康の側近として、内政外交など多方面で活躍しました。崇伝が家康に用いられるようになったのも、承兌の口入(あっせん)があったからです。慶長一二年、承兌長老が死去すると、いよいよ崇伝は、黒衣宰相として登場するのです。崇伝が権勢を振るえたのは、全く承兌のおかげだったといえます。
家康には、崇伝の他に南光坊天海という近侍僧がいました。天海はどちらかといえば、宗教政策の面だけに関与したのですが、崇伝はそのあふれる才覚によって、宗教・内政・外交など、多方面で幕閣に参画しました。
崇伝が承兌亡き後、幕府権力をバックにして、まずやろうとしたことは、南禅寺を禅宗界の最高の地位に登らせることでした。そもそも南禅寺は、亀山法皇の開基であるという点で、他の五山禅院より上院とされ、足利義満の時代には、五山の上の別格とされていました。ちなみに天龍寺は五山の第一位、相国寺は第二位にランクされています。けれども、天下の僧録司が置かれ、室町幕府と直結して、実質的に我が国の禅宗界に君臨していたのは、ほかでもなく相国寺でした。崇伝が意図したものは、相国寺の持つこの僧録の特権を南禅寺に奪い移し、自らが僧録司に任じて、天下禅院を支配する事だったのです。
相国寺の凋落
徳川幕府は支配強化の立場から、武家諸法度を制定して大名を統制し、禁中並公家諸法度で朝廷勢力を抑圧しました。それと並行して、仏教界をも厳しく統制し、これを利用して封建支配をより一層強化しようとしました。関ヶ原合戦(一六〇〇)の翌年、高野山に発した法要に始まり、元和二年(一六一六)の身延山久遠寺法度に至るまで凡そ一五年間に、多数の法度を発布して、各宗派にわたり微細に統制を加えました。これら凡そ百の寺院法度は、いずれも崇伝が起草したものです。元和元年七月、五山十刹に対して発せられた法度は、とりわけ相国寺にとって大きな打撃でありました。すなわち、「相国寺鹿苑院内の蔭涼軒にある僧録司は、前代室町時代に定められたもので、現在では用いるに足りないから廃止する。今後は五山長老のうちで、将軍の帰依厚きものが僧録司となって、五山禅林を統制すべきである。」(第7条)
というものでした。まさに相国寺にとって、青天の霹靂でした。かくして、相国寺が室町時代以来持ち続けてきた僧録の特権は、幕府によって完全に否定されてしまいました。
それから5年後、幕府は僧録を南禅寺の金地院内に設置することを決定しました。すべては崇伝の作ったプログラム通りに進行したのです。相国寺の輝ける栄光は、崇伝の辣腕によって、みじめにも消し去られてしまったのです。承兌長老は地下にあって、さだめし無念の涙を流したことでしょう。
相国寺再び炎上す
苦境に陥った相国寺に、災禍が容赦なく追いうちをかけました。
元和六年二月晦日、新町辺りから起こった火の手は、折からの風にあおられて、忽ち相国寺を焼き尽くしました。方丈・開山堂・鹿苑院・蔭涼軒・常在光寺・豊光寺・円光寺・大光明寺・瑞春軒・久昌軒・雲泉軒・徳渓軒・桂芳軒・ト隠軒・養源軒の二堂十二院が焼けてしまいました。焼け跡に立った相国寺の僧たちは、全く呆然自失の態だったでしょう。
紫衣事件
一方、幕府が大徳寺、妙心寺に発した法度もひどいものでした。大徳寺法度の第二条には、次のような事が定められています。「参禅修行は、高僧について30年間綿密に弁道工夫し、一七〇〇則の公案を通過し、更に諸長老を遍歴して指導を受け、世間出世間において自在の働きができるようになって初めて、幕府に言上するならば、開堂入寺を許可しよう。」
これは無茶苦茶な無理難題だったのです。明らかに崇伝が、奉勅入寺(勅命により住持となる)を誇る大徳、妙心を押さえ、両寺に対し天皇がもっている住持任免権を、幕府の手中に奪い取ろうと起草したものでした。
大徳寺の澤庵らは、敢然と幕府に抗議し、起草した者は禅に昧いのだろうといって、暗に崇伝を非難しました。しかし幕府は、崇伝の意見を容れ、澤庵らを処罰し、流罪としました。これが有名な紫衣事件です。
崇伝は徳川家康・秀忠・家光の三代に仕え、草創記の幕府権力の確立に大きく貢献し、寛永十年正月二十日、六十五歳で遷化しました。しかし、そのためにかなり悪辣な手段を弄しましたので、各方面から憎まれました。細川忠興がその子忠利に送った手紙には、「金地院崇伝のやることについて、日本国中上下万民が悪口を申している。実にニガニガしい奴だ」と書かれています。
このようでしたから、崇伝の名をまともに云う人はなく、大慾山気根院僣上寺悪国師と呼んだということです。
後水尾天皇の譲位
澤庵らの事件の直後、後水尾天皇は突如譲位されました。天皇は幕府に対するうっ積した不満を、譲位という行動で示されたのです。幕府はさきに禁中並公家諸法度を発して、天皇や公家の権限を大幅に制限し、日常の生活にも干渉しました。昔から天皇に付属していた紫衣勅許の特権も、幕府の許可なしでは行使出来なくなりました。生来気骨のある天皇は、憤懣やるかたなかったに違いありません。その上、幕府は将軍秀忠の娘和子を中宮として入内(じゅだい)させ、天皇の周囲に警戒の目を光らせました。天皇の突然の譲位は、このような憤懣が、澤庵和尚の一件を契機として、爆発したものにほかなりません。
天皇は心中の不満を癒すためでしょうか、五山の僧と交わって、しきりに禅の修行に励まれました。天皇と交渉のあった禅僧をあげてみますと、澤庵宗彭、一絲文守、听叔ケンタク、鳳林承章、雲居希膺、愚堂東寔、龍渓性潜、隠元隆琦といった、そうそうたるメンバーでした。
後水尾上皇の出家
天皇は譲位後も、幕府に対する悪感情を抱き続けました。上皇は譲位から二十二年目の慶安四年(一六五一)、突然出家されました。側近の公家たちも、京都所司代も全く寝耳に水の出来事でした。幕府はこのことを不快に思ったと見え、林羅山は上皇の出家を、親に従わない驕子(きょうし)の行為だと非難しています。もとより上皇の出家は、幕府に対する不満のためでした。
上皇の御落飾に立会い、戒師をつとめたのは、相国寺九十四世听叔ケンタクでした。唄師は九十五世鳳林承章、剃髪師は九十六世覚雲顕吉です。このことからも、上皇と相国寺は大変親密な関係にあったと想像され、恐らく上皇自身、しばしば相国寺を訪ねられたに違いありません。
上皇と鳳林承章
とりわけ上皇と深い交渉があったのは、一絲文守と鳳林承章でした。一絲は岩倉具暁という公家の子で、一四歳のとき相国寺の雪岺梵崟に参じましたが、のち各山を巡錫し、近江の永源寺に住した人ですので、ここでは触れないことにします。(詳しくは、辻善之助博士「日本仏教史」近世篇之二を参照)
承章も勧修寺晴豊という公家の第六子に生まれ、相国寺に入って、承兌和尚に参じ、その法を嗣いで相国寺の九十五世に出世しました。また師のあとをついで、鹿苑寺(金閣寺)にも住したことがあり、晩年は相国寺の山内に晴雲軒を開いて、ここに居りました。彼はいかにも公家の出身らしく、和漢の文学や芸能に通じた教養の高い人物でした。彼の日記に「隔冥記」というのがありますが、近時鹿苑寺より六巻本として印刷刊行され、江戸時代初期の京都文化を知るうえで、極めて貴重な史料となっています。
この隔冥記によりますと、承章は元和四年(一六一八)頃より寛文五年(一六六五)頃までの凡そ五十年間上皇のそば近くに出入りして、禅学を進講するとともに、和漢の歌会、能、舞、茶、花見、酒宴などの席に連なって、親交を結んでいます。承章の所望によって、詠まれた御製の宸筆が、鹿苑寺に所蔵されています。
とはゝやなきぬ笹岡のあきの色を
来て見よとこそ鹿もなくらめ
上皇と承章の深い交わりが思われます。
後水尾上皇の資助
元和六年の火災によって、大きな被害を受けた相国寺の再興はなかなか進捗しませんでした。上皇はこのことで、いたく宸襟をなやませられ、いろいろ援助の手を差しのべられました。寛永一八年(一六四一)には、旧殿を下賜され、これを移築して方丈が再建されました。
宝塔の再建も上皇でした。もともと宝塔は、義満が建立したのですが、応仁の戦火で焼失していました。塔は法堂の西南に、高さ約三十メートル、三層造りで建てられ、御落飾の時の髪と歯を上層の柱心に納められました。なお、この塔も天明八年(一七八八)焼失し、現在の塔は南へずらし、塔の址は御陵に編入されました。これが現在の後水尾天皇御歯髪塚であります。
開山堂も上皇の建立です。上皇は皇子穏仁親王の死をいたみ、一寺を建立しようとの御意志があったのですが、結局、相国寺開山堂を再建して、ここに穏仁親王の御像を安置され、追善供養をされました。このとき、塔号をつけるため、相国山内の宿老鳳林承章、覚雲顕吉、春葩宗全の3人に、それぞれ二つずつ塔号を案じて提出させられましたが、承章の提出した「円明」を御採用になり、円明塔と号することになりました。相国寺には、このとき上皇が自ら筆を染められた「円明」という宸翰が蔵されていますが、現在開山堂中央に揚げられた円明の勅額は、宸翰を本字としたものです。
このように、江戸時代初期の相国寺は後水尾上皇によって支えられたと云って過言ではありますまい。
天明の大火
後水尾院の叡慮によって、七堂伽藍が立派に整えられた相国寺は、その後数十年間、何事もなく平穏な日々でした。
ところが天明八年(一七八八)恐るべき災厄がまたしても相国寺にふりかかって来ました。それは「天明の大火」とよばれる未曽有の火災で、京都は応仁の乱を上まわるほどの打撃を受けたのです。
天明八年正月二十九日。京都は夜半から烈風が吹き始めました。この風の中で、三十日未明、鴨川の東、宮川町団栗図子の空家から火の手が上がりました。放火でした。火はたちまち燃え広がって鴨川の西岸に飛び火し、寺町通り高辻の安養寺を焼き、それより西に南にまた北に、狂ったようになめ尽くしました。三十一日も終日燃え続け、二条城も東本願寺も、そして禁裏御所も回禄しました。
相国寺再び炎上
そして翌二月一日、禁裏の北側、市街地にもっとも近い鹿苑院(現在の同志社大学敷地)に移り、火魔はたちまち総門・山門・方丈・庫裏・開山堂・宝塔・毘沙門堂・鐘楼・その他塔頭子院21ヵ所を焼き尽くしました。いま、天明大火焼亡地域の地図(『京都の歴史』6巻)を見ますと、東は鴨川、西は千本通り、南は七条通り、北は鞍馬口通りまで、当時の京都市街地の9割を燼滅してしまったといっていいでしょう。
相国寺で奇跡的に災厄を免れたのは、法堂・浴室・法住院・光源院・林光院・大智院・慧林院・慈照院・富春軒・巣松軒・雲泉軒の二宇九院に過ぎなかったのです。相国寺の打撃は大なるものがありました。その中から立ち上がるのは、至難のわざでありました。室町時代ほど、相国寺は幕府から優遇されていたわけではありません。寺領も十分ではなかったし、その上、公家や宮家にも昔日のおもかげなく、スポンサーになってくれるはずもなかったのです。例えば、焼失した三門(山門)を再興するために、相国寺は天明八年から文化14年までの二十九年間に、幕府に対し直接六回、間接に三回も嘆願請願を試みたのですが、遂に成功せず、今日にいたるもただ礎石を残すのみです。
それでも第百十三世梅荘顕常らの努力によって、文化四年(一八〇七)ごろには、総門・方丈・庫裏・開山堂が再建されました。現在の方丈・開山堂などは、いずれもこの時の建物です。しかし、旧観に復することは容易ではありません。世は幕末ですから、政治的混乱や経済的破綻に、国民全部が苦しんでいる時節でした。相国寺山内のあちこちには、焼けたまま復興されない塔頭趾や、崩落した土塀が見られました。
誠拙の屈請
このような状態にあって、相国寺が伽藍の再興もさることながら、むしろ禅堂における若い禅僧の育英こそ急務であると考えたのは、特筆大書すべきことでありました。
当時、光源院(塔頭)の院主であった拙菴元章は、自分の師である円覚寺の誠拙周樗(大用国師)を僧堂師家に迎えることに成功しました。誠拙は長らく円覚寺僧堂の師家をつとめ、やがて円覚寺の住持職についた人です。その間、多くの俊秀を鉗鎚(きたえること)し、又、衰退していた同寺の復興に努めました。幕末における屈指の禅僧といっていいでしょう。
誠拙については、おもしろい話が残っています。
彼が一三歳の小僧で、まだ故郷宇和島の仏海寺で、霊印和尚に師事していた頃です。ある日、宇和島藩主が仏海寺に参詣したことがありました。藩主は誠拙を召して肩をたたかせたのですが、いつまでたっても「もうよい」といいません。怒った誠拙は、突然殿様の背をこぶしで痛打一撃すると、そのまま走って逃げてしまいました。師の霊印はすっかり恐れ入って、八方探しましたが見つかりません。でも藩主はなかなか聡明な人だったとみえ、「あの小僧は偉材だ。ずい分と撫育してやれ」といったそうです。藩主はこの少年のただならぬことを見抜いていたのです。
またこんな話もあります。
西京に谷松屋、戸田宗潮という人がいました。江戸にいたとき、茶人で有名な雲州松平不昧公に謁することがありました。
「余は本日、誠拙和尚を招いて茶会をする事になっている。そちも陪席して良いぞ」
すると宗潮は、
「折角でございますが、私はただ今から吉野へ遊びにまいりますので、陪席できませぬ」
といって、さっさと帰ってしまいました。数年後、誠拙和尚が相国寺の玉龍院で病床にあったとき、宗潮は餅菓子一折を携えて見舞いに来ました。誠拙は寝ながら首をもたげ、目を嗔して彼に言いました。
「貴公は以前雲州不昧公のお座敷で、茶会の招待を断ったそうじゃな。拙僧はそれを聞いて、ずい分高雅な肝っ玉の大きな人間だと思った。その貴公がなんで問病のような愚かなことでやって来るのだ」
さすがの宗潮もたじろいで、
「和尚は本当に畏るべきおかただ」
といったそうです。いずれも独園禅師の『近世禅林僧宝伝』に載っている話です。ともかく、右の逸話でも推しはかられるように、当代一級の禅僧でした。
文化4年足利義満の四百回忌にあたり、誠拙は相国寺で夢窓録を講じますと、百余人の雲衲(雲水)が集まりました。また、文政三年(一八二〇)相国僧堂の開単式にあたって、碧岩録を提唱しますと、又々百余人が講席につらなったといいます。災後の相国寺に、ようやく活気が生じたのは、やはり誠拙の来山のおかげでした。誠拙は文政3年相国寺で遷化しました。代わって法嗣の武陵承志が師家となりましたが、短命で世を去りました。
鬼大拙の登場
そこで光源院の拙菴長老は、その後任として、備前曹源寺の太元孜元の法を嗣ぐ、大拙承演を招きました。大拙は「鬼大拙」と呼ばれたほど、その教え方は辛辣で、機鋒峻烈でありました。弟子たちを常に苛罵し、容赦なく痛棒をくらわせました。
大拙の相国寺での弟子の一人に、洪川宗温がいました。洪川は後年鎌倉円覚寺の管長として、明治期の禅宗界の旗頭となった人です。あるとき大拙のもとに来客がありました。大拙は洪川に命じて菽乳羮を作らせました。菽乳羮というのは豆腐汁のことです。ところが洪川は生来料理が不得手で、手元も不器用だったとみえ、豆腐の切り方がひどく不揃いでした。これを見た大拙は、怱ち激怒して洪川を罵倒し、禅堂から追い出して還俗させようとしました。大拙の厳しさのなかには、多分に癇癪持ちの一面もあったようです。
それでも嘉永三年(一八五〇)、開山夢窓国師の五五〇年遠諱にあたって、大拙が普明録を提唱しますと、集まった禅僧は五〇〇余人にも達したといいますから、やはり大変な名僧だったのです。彼のもとで、幾多の禅傑が育っていきました。世は幕末の激動期です。血なまぐさい風が吹き、新しい時代を模索する呻吟の時代でした。それ故に不退転の決意を抱いた若い禅僧たちが、ことさら悪辣な大拙の会下に参じようと雲集したのでした。幕末の相国寺は、まさに禅のメッカでありました。
鬼大拙の登場
独園出ず
独園は文政二年(一八一九)、岡山県児島郡東児町に生まれました。八歳のときより同郡の掌善寺に入り、一三歳で剃髪出家しました。一八歳のときより笈を負って豊後に赴き、有名な帆足万里について儒教を学ぶ事六年、天保一二年(一八四一)万里のもとを辞して上洛し、相国寺に掛搭(禅堂に入ること)し、鬼大拙の峻烈な鉗鎚に接することになりました。彼は生来温厚でしたが、修行は常に決死的でした。大拙から狗子仏性の公案を与えられた独園は、それを究明するためほとんど一年間、いばらの垣根の上に座ったり、雪の地べたに結跏して、弁道工夫に努めました。いい加減な見解では、師大拙は決して許しませんでした。そのたびに罵声がとび、痛棒が頭上にさく裂しました。後年、独園は『退耕語録』の中で、法兄洪川とともに、往年の苦しい修行時代をふりかえって、「先師悪辣の手段、朝に夕に、熱喝嗔拳殆ど近傍すべからず、共に倶に辛を嘗め苦を噛み、あるいは雨窓に泣き、あるいは雪庭に立つ」と述べています。
洪川はやがて大拙のもとを去って、曹源寺に掛錫しますが、独園は大拙のもとで豁然と大悟し、その道統を嗣ぎました。大拙はやがて病にかかって、嘉永五年(一八五二)師家の座を越渓守謙に譲りますが、独園はなおも越渓のもとで微細の因縁を究明して仕上げをいたします。安政二年大拙は五十九歳で死にますと、翌安政三年独園は心華院(現在の大光明寺)に住し、師家として大衆を接化することになりました。ときあたかもペリーの来航、鎖国体制の崩壊など、驚天動地の事件が世をおどろかせ、国論は開国攘夷の真二つにわれて、騒然たる有様でした。とりわけ京都は尊王攘夷の志士たちが跳りょうして、不穏な状態が続きました。
文久二年(一八六二)島津久光が兵をひきいて上洛し、伏見寺田屋で薩摩の志士を斬ったことは、不穏な動静に輪をかけました。そしてこともあろうに相国寺は、その薩摩藩に境内の西南一帯(現在同志社大学の敷地)六九四五坪を貸与したのでした。そのいきさつは詳かではありませんが、薩摩はすぐさまこの地に薩摩屋敷を設けました。恐らく相国寺の境内では、夜ごと薩摩藩士と佐幕派の剣戦の響が鋭く聞こえたに違いありません。現在浴室の西の延寿堂墓地に、蛤御門の変(元治元年)に死んだ長州藩戦死者墓があったり、東門前町に薩藩戦死者碑があるのは、相国山内に薩摩屋敷があったからです。
困難に立ち向かう独園
こんな物騒な環境の中で、独園はひたすら弟子の育成に情熱を燃やしました。それはあたかも、上野寛永寺の森に殷々とこだます彰義隊の銃声の中で、平然とミルの自由論を講じた慶応義塾社の福沢諭吉に似ていました。
明治三年八月独園は相国寺の住職となりました。しかし明治新政府の神仏分離令によって、廃仏毀釈の運動が起こり、仏教の地位は全く墜ちてしまいました。この時、独園は敢然として起ち、廃仏の非を痛論したのでした。分離令に次いで、明治政府は明治四年寺領上知令を発して、寺院に追い討ちをかけました。多くの寺院はその寺領を失いましたが。相国寺でも、もと七万坪あった境内地のうち、四万三千坪が没収されるという打撃を受けました。そのようななかで、明治五年大教院が設置されると、独園は大教正に任じられ、臨済・曹洞・黄檗三宗の管長を兼ね、同年一二月には大教院教頭にすすみました。まことに独園は我が国禅宗界の最高責任者になったのです。それだけに彼の双肩には、仏教布教の自由を回復すること、経済的打撃を緩和すること等々の解決すべき問題が重くのしかかってきたのです。
明治八年大教院が解散となり、相国寺管長にもどった独園は、それより地方の布教の旅に出、土佐・薩摩・日向・大隈などにそれぞれ教線を拡張しました。鹿児島の南洲寺などは、このとき造営されたものです。又、塔頭玉龍院を居士林とし、在俗のための禅堂としました。参禅するもの常に五十余人に達したといいます。山岡鉄舟などもここに参禅しています。明治二十七年弟子東嶽承晙にあとを譲り、自らは東山銀閣寺に隠退し、翌年八月七十七歳で遷化しました。彼の鉗鎚を受けた僧は、実に1千余人に及んだということです。まことに独園は、近代の相国寺を作り上げた第2の夢窓疎石でありました。
相国寺物語 完