竹林猿猴図屏風 (ちくりん えんこうず びょうぶ)

長谷川等伯筆 桃山時代 六曲一双(右隻)

各縦154.0 横361.8 相国寺蔵


  長谷川等伯は、天文八年(一五三九)能登七尾城畠山家の家臣奥村某の家に生れ、染物を生業とする長谷川家の養子となる。初め養父道浄に染色の画筆の手ほどきをうけ、最初は仏画師として出発したようであるが、後に雪舟などの室町水墨画を学び、さらに中国宋・元の名画をも習った。 そして元亀二年(一五七一)養父を亡くすと、いよいよ画をもって本業とすべく京へ上り、名画を学ぶべく大きな寺院へ出入りし、また千利休をはじめとする堺町衆とも交際を深め、次第に見聞を広めていった。天正十年(一五七二)前後に名を信春から等伯と改め、各寺院の襖、屏風等の本格的な製作活動に入った。年も四十歳半ばであり、意欲満々の時である。本屏風はこの頃の作品といわれ、この期に入って本格的に雪舟などの室町水墨画はもちろん、中国の古画へと進み、牧谿の影響を大きく受けている。阿弥派風なやわらかく深みのある竹林と、古木に遊ぶ三匹の親子猿を描いているが、明らかに中国の牧谿を学んで、自己のものとしたあとがうかがえ、日本的な情の世界と中国の厳しさとを合わせもつものであり、等伯の歩んだ途を知る記帳な資料である。