雪舟は備中赤浜(現岡山県総社市)に生まれている。総社には国府があり、当時の備中の文化行政面での中心地であった。俗姓は小田氏とされており、在地の有力武士の家であったと考えられる。幼少で総社の宝福寺に小僧として入るが、これが雪舟の禅僧としてのスタートとなる。
宝福寺に預けられた雪舟は幼い時から絵が描くのが好きでお経には見向きもしない。ある朝、師の僧は怒って雪舟を柱に縛りつけた。夕方になってそろそろほどこうとすると、雪舟の足もとからネズミが走り出す。驚いた師は追い払おうとするが、ネズミはまったく動かない。よくみれば、それは雪舟がこぼれた涙を足の親指でなぞって描いた絵のネズミであった。師は雪舟の才能に感心して、以後、絵を描くことをとがめなかった。」
このような逸話が、雪舟が活躍した時代から200年たった頃、狩野派の絵師・狩野永納によってまとめられた『本朝画史』に記されており、雪舟の画才を称えている。
またどういう経緯で出家することになったのかは不詳であるが、中世の武家の仕来りによく見られる、相続する長子以外を出家させ、相続争いを避ける、ということであったとも考えられる。またこの宝福寺は京都東福寺に属する寺で、五山派諸山の格式を持ち、備中における東福寺の中心的役割を担っていた。こういう経緯から雪舟は宝福寺を足掛かりとして、東福寺へ入っている。
さて相国寺への入門については、これも確証はもてないが、備中赤浜の隣接地に大井荘(現岡山市内)なる相国寺の荘園が中世に存在した。推測の域は超えられないが地元の荘園被官のつながりで、相国寺へ入ったと考えられる。
相国寺では春林周藤(自坊は塔頭慶玉軒(明治で廃絶))について修行したといわれているが、春林は相国寺第36世に昇っており、また鹿苑僧録12世にも就いている。いわば当時の五山僧としては最高峰の地位までいった人物である。したがって最初から直接春林に師事したとは考えにくい。ただ年少で入門したようで、喝食(カッシキ・前髪を残したままで寺に住み込み、住持の世話をする役)として春林に仕えたという説もある。
雪舟は参禅のかたわら周文について画を学び、次第に実力をつけていった。間もなく元時代の名僧楚石梵琦(そせきぼんき)の墨蹟「雪舟」を得て、龍崗真圭に雪舟二字説を書いてもらって字としたが、南宋時代の詩人楊万里が書斎を釣雪舟と号していたことに因むものである。