しかし、この塔も応永十年に落雷によって炎上し、その後北山に移して再建するが応永二十三年(1406)の正月九日から十日にかけて炎上する。その後、七重の大塔は相国寺東南の旧地にもどされて再建され、文明二年(1470)3度目の火災で灰燼に帰すまで京のシンボルとして君臨した。 塔からの眺めはすばらしく、瑞渓周鳳(相国寺第42世)が「塔上眺望」と題する詩に、そのさまを詠んでいる。また当時の都を鳥瞰した「洛中洛外図屏風」町田本(重文)は、この七重塔からの眺望をもとにして描かれたという説もある。 現在七重の塔の跡は残っていないが、相国寺の近くに、「塔之段」という地名が残っており、その場所に七重の塔があったといわれている。