※藤原惺窩(1561~1619) 安土桃山~江戸前期の朱子学者
永禄四年(1561)播磨国三木郡細河村(兵庫県三木市細川町桃津)で藤原為純の三男として生まれる。また惺窩は藤原定家の十一世孫にもあたる。七歳にして仏門に入り播州龍野、景雲寺の東明宗?に学ぶ。父為純が戦死したのち、叔父にあたる相国寺塔頭普広院第八世住職の清叔寿泉(文四年 1576没)を頼って上洛、当時の玉龍庵(現玉龍院)第五世住職文鳳宗韶(元亀三年1572没)の弟子となり、口蕣(不詳)と名のる。また字を文華という。首座となって妙寿院(不詳)に起居す。当時の相国寺住職は九十一世仁如集尭(在位1544~1574)、九十二世西笑承兌(在位1585~1607)であった。
公家の家内伝統的な学問に比べ、中国の文化・思想を取り入れた禅学は惺窩にとって新鮮に感じられたのであろう。恐らくは西笑承兌からも禅学を学んだと推測される。特に西笑承兌は豊臣秀吉や徳川家康のブレーンの一人として知られ、幕府の諸法度や外交文書の起草、学問奨励策や寺社行政の立案、法要などの仏事の運営に重要な役割を果たした。そして禅学や五山の一部の風気は惺窩の儒学傾倒にも影響を与えた。後年惺窩はそれまで五山の禅僧の間での教養の一部であった儒学を体系化して京学派として独立させた。