林 光 院

林光院は、足利三代将軍義満の第二子、四代将軍義持の弟義嗣(林光院殿亜相考山大居士)が、応永二十五年(1418)一月、二十五歳で早世され、その菩提を弔うため、夢窓国師を勧請開山として京都二条西ノ京、紀貫之の屋敷の旧地に開創されました。
応仁の乱後、等持寺の側に移り、その後も移転すること数度、輪番住職のためにその事跡を明らかにすることはできません。元亀(1570?72)の頃、雲叔周悦和尚輪番住職のとき、豊臣秀吉の命により明・韓通行使となって功あり。秀吉はこれに報いるため林光院を独住地とし、また相国寺山内に移設しました。これにより雲叔和尚を中興の祖とします。
慶長五年(1600)関ヶ原の戦いのとき、島津義弘が両陣営の中央を突破し伊賀に隠れました。かつてより親交の厚かった大阪の豪商田辺屋今井道與が潜伏先に急行し、困難極まる逃避行を実行して、堺港より乗船させ、海路護送して無事薩摩に帰国させます。
この抜群の功により、薩摩藩秘伝の調薬方の伝授を許されました(現在の田辺製薬の始まりです)。後に道與高齢となり、薩摩まで義弘に会いに行けなくなると、義弘は自ら僧形の像を造り道與に与えます。道與は住吉神社内に松齢院を建築し、その像を祀ります。義弘没後は位牌も添えられますが、松齢院が後に疲弊したとき、道與の嫡孫乾崖梵竺が林光院五世住職となり、義弘の像と位牌が林光院に移され、島津家により遷座供養が修行されました。以降、薩摩藩との関係ができ、現在、林光院墓所に薩摩藩士の墓があり管理しているのはこれによります。
同墓所には徳川家康も、師の礼を執られた大儒教家・藤原惺窩(せいか)の墓もあります。明治七年(1874)疲弊荒廃しついに廃院となるも、大正八年(1919)ときの相国寺派管長・橋本獨山により再興され、師を再中興和尚とします。
現在の建物は、滋賀県蒲生郡日野町西大路村に江戸時代、仁正寺藩市橋家があり、その藩邸(安政年間建立)を買い取り移築されたものです。
○鶯宿梅(おうしゅくばい)
当院の庭園に「鶯宿梅」と呼ばれる名梅があります。いわれは『大鏡』に村上天皇の天暦年間(947?56)御所清涼殿前の梅の木が枯れ、代わる木を求められたところ、紀貫之の娘の屋敷の梅が選ばれ、勅命により御所に移植されました。

ところが、その梅の枝に


勅なればいともかしこし鶯の
宿はととはばいかがこたえん


との歌が書かれた短冊を見て、天皇はその詩情を憐れみ、この梅をもとに返されたといいます。この後、この梅を「鶯宿梅」と称されています。
この紀貫之屋敷跡に林光院が創建され、鶯宿梅が当院の庭木として消長をともにすることになります。数度の移転、廃院など千有余年の間、鶯宿梅も幾回かの代替わりなどを繰り返し、現在にいたるまで、住職の並々ならぬ努力により、今も咲き誇る梅に歴史の重さが感じられます。


うぐいすの春待ち宿の梅がえを
おくるこころは花にぞ有る哉 (島津家久)

 

わが宿にうえんも梅のみにあわぬ
名高き花の根さしおもえば (長淵籐五郎)


など、鶯宿梅を詠まれた歌があります。