開山堂庭園1
開山堂はその名のように開山夢窓国師の木像を安置している堂で、法堂の東にあり、境内で最も大切なところです。応仁元年(1467)応仁の乱の兵火で焼失し、寛文六年(1666)後水尾天皇が、皇子桂宮第三世穏仁親王のために再建されましたが、又天明八年(1788)天明の大火で焼失します。現在の建物は江戸時代末期に桃園天皇の皇后、恭礼門院の黒御殿を賜って文化四年(1807)に移築、仏堂として用いられるように増築や一部改造を行なったものです。現在は前方の礼堂と、この奥に続く中央の祠堂とから成り、開山堂としての一般的平面をもっています。
正面奥には相国寺開山夢窓国師を安置し、西の壇には仏光国師像、仏国国師像、普明国師像、足利義満像を安置し、東の壇には相国寺有縁の宮家の位牌や像を安置しています。
堂内の杉戸及び襖の絵は円山応挙とその一派の筆です。
開山堂は、平成十九年(2007)に京都府指定有形文化財となっています。
開山堂庭園2
開山堂の南庭は、手前が白砂敷きの平枯山水、奥部が軽くなだらかな苔地築山となっていて、その間を幅五尺ほどの小川が流れていましたが、昭和十年頃に水源が途絶えてしまいました。この流れは上賀茂から南流する御用水『賀茂川~上御霊神社~相国寺境内~開山堂~功徳院~御所庭園と流れていた水流』を取り入れたもので寺ではこれを『龍淵水』と称し、開山堂をでてからの水路を『碧玉構』と称していました。
相国寺開山堂の庭は、厳密にいえば、築山と流れの「山水の庭」と、御影の切石に縁取られた白砂に庭石を配置した「枯山水平庭」の、二様の形態の庭がひとつに同居しているわけで、しかもこの二様の庭が一体となって連繁を保っている面白い形式です。
夢窓国師
像高 114cm
開山堂は「資寿院」と号した初建の時、夢窓国師像が安置されていたのでしょうが、創建当時のものはすでに焼失して今はありません。現在の像はいつ頃のものであるか紀年がないのではっきりは判らぬながら、室町中期を下らぬものであることは否めません。したがって文正元年(1466)までに再建されていた開山堂に安置されたのがこの像でしょう。
本像は、小柄で痩身でありますが、当時切っての博識明敏な国師の人柄を、実によく表現しています。また国師は「夢窓肩」という言葉も生まれたほど、その流れるようなほっそりとした肩が特徴であったといわれ、袈裟が滑りそうなその肩の感じがよくあらわされています。
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無学祖元(仏光国師) 木像
像高 93cm
本像は、夢窓国師の法祖父仏光国師無学祖元の木像です。無学祖元は嘉禄2年(1226)中国明州慶元の生まれ。杭州浄慈寺の北かん居簡について得度、時に年十三。弘安2年(1279)北条時宗の請に応じ来朝、8月、鎌倉建長寺へ入る。同5年12月、時宗円覚寺建立、開山となります。同9年9月3日、61歳をもって寂す。さてこの像は、寛文6年(1666)後水尾天皇再建の時、やや遅れて当山第百世汝舟妙恕の寄附により、延宝8年(1680)9月3日に仏師法橋了無の手によって制作されて安置されたもので、天明2年(1782)7月7日に仏師清水隆慶によって補修されており、天明8年の大火の際にも無事に避難したのでした。
高峰顕日(仏国国師) 木像
仏光国師像の左隣りに安置されているのが仏国国師、高峰顕日像です。仏国国師は、開山夢窓国師の嗣法の師であります。
国師は仁治2年(1241)、後嵯峨天皇の皇子として城西の離宮に生まれられました。
弘安2年(1279)暮に世良長楽寺の一翁院豪の仲介により長楽寺において来朝の早々の無学祖元に謁し、以後無学に参じ、同4年9月建長寺において無学より無準師範所伝の法衣を受けました。
嘉元3年鎌倉浄智寺において、仏光国師相伝の法衣を疎石に付し、印可をされました。
嗣法の弟子には、夢窓疎石をはじめ大平妙準、元翁本元、天岸慧広らが輩出し、蘭溪道隆の大覚派と並び、仏光派は高峰によって関東禅林拡大の基礎を作りました。
本像もやはり延宝8年(1680)10月20日、当山第百一世太虚顕霊の寄附により、仏光像と同じく仏師了無に命じて彫刻、円明塔に奉安されました。
春屋妙葩(普明国師) 木像