普 廣 院
創建当初は乾徳院と呼ばれました。夢窓国師の法を嗣ぎ相国寺第九世となった性眞圓智禅師観中和尚は、足利義満の帰依厚く、山内に退休の地と禅室を与えられ、ここを塔所として創立されました。嘉吉元年(1441)足利六代将軍義教薨じ、普廣院殿と号し、当院を影堂(位牌所)と定め、法号に因んで普廣院と改号しました。
第三世には永楽通宝の字を書いたとされる仲芳中正(中正蔵主)がいます。応仁の乱による被災後、第四世文林永集(慶集)の在生中に「普廣院封境絵図(ほうきょうえず)」(本山に現存)なる再建復興計画図が制作され、永正七年(1510)頃には冷泉家の旧邸地が藤原定家の墓所を併せて冷泉家より寄進されています。つまり当院に墓の管理を委託し、祠堂料に相当する土地を含めて寄付され、寺域は大いに拡張されました。第八世清叔寿泉は冷泉家出身で、普廣院と冷泉家の関係は密接でした。
天明の大火の後、長く復旧が遅れ、嘉永元年(1848)五月に漸く再建、大正九年(1920)に旧鹿苑院跡の現在地に移転して今日に至っています。