方丈
禅宗の伽藍の配置は南北に山門、仏殿、法堂、方丈が同一軸線上に並んで建てられているのが特徴です。相国寺も例外でなく、法堂の北側に方丈が建てられています。相国寺方丈は、初建以来幾度も焼失して現在の建物は、天明の大火を経て文化四年(1807)に開山堂、庫裏と共に再建されたものです。造りは一重、入り母屋造り、桟瓦葺き、切妻造りとなっています。桁行25m、梁間16mで、方丈としては大規模な建築で、平成十九年(2007)に京都府指定有形文化財となっています。
語源
方丈の語源は、一~二世紀頃に成立した大乗経典『維摩経』に登場する俗人維摩居士の居室が一丈四方であったことからできた言葉であり、住職の住まわれる居室を指しました。又、転じて住職自身のことも方丈と呼んだりするようにもなりました。扁額の字は中国の名筆家張即文の筆であり、欅(けやき)の一枚板に彫られています。
裏方丈庭園
前庭は、白砂を敷き詰めただけの単調な造りになっていますが、その効果は法堂の姿を立派に表現するだけでなく、白砂による太陽の反射を利用して室内を明るくするのに役立っています。
部屋は北三室、南三室の六間、『六間』取りで、広さは一畳四方ではなく、表方丈と裏方丈をあわせて168畳あります。
方丈室中
中国普陀落山図 原在中筆
方丈と周りの杉戸絵は皆、原在中によって描かれています。
中国で観音菩薩の霊場とされる「普陀落山」が描かれています。
竹の間
竹図 玉潾筆
維明和尚(第115世)の友人で当時山科に住んでいた、浄土宗の僧玉潾によって描かれました。
梅の間
老梅図 第115世 維明周奎筆
専門の画家ではなく、相国寺第115世維明 周奎によって描かれたものです。維明和尚は若狭の出身で、山内の光源院の住職をしていて、本山の住職となられた方でありますが、若い時から絵が上手であり、京へ出て光源院に住職した頃から、伊藤若冲について画を学んだのです。釈迦三尊像や動植綵絵でも有名な若冲についてみっちり学んだ画は、実に素晴らしいものでした。特に梅を描けば天下第一といわれた程の名手ぶりであり、方丈の十二枚の大襖にも大老梅樹を描き上げました。
御所移しの間
吉野山桜図 土佐派
貴族の絵、御所の清涼殿より拝領した襖絵。山々のまろみ、桜や松のやさしさが見事に表現されています。作者は江戸時代初めに土佐派を復興した土佐光起ともいわれるが、はっきりわかっていません。
琴棋書画の間
琴棋書画図 原在中筆
中国文人の間で士君子の嗜みとされた琴棋書画を画題とした図が描かれています。
聴呼の間
八仙人図 原在中筆
襖絵作者
原在中
又の名を臥遊と号した原派の初祖である。寛延3(1750)年に京都に生まれる。師は江戸中期京都画壇で活躍した狩野派の石田幽汀(1721-1786)と伝えられる。とりわけ、山水花鳥画を得意とし、有職の画に巧みでありその当時右にでるものはなかった。設色のものにいたっては、特に精緻であった。天保8(1837)年没。享年88歳。墓は原家の菩提寺浄土宗天性寺にある。法名は臥遊室楽誉在中到玄居士。
僧玉潾
近江の僧であり、名は正邃といい、墨石堂と号した。僧玉翁の法弟で洛東山科に住した。画を師に学び、墨竹を得意とした。
文化11年(1814)示寂。
方丈勅使門
方丈正面の勅使門は一間一戸の四脚門(しきゃくもん)であり、屋根に曲面をなす唐破風(からはふ)を用いています。平成十九年(2007)に京都府指定有形文化財となりました。