法 堂
法堂(ハットウ)は、慶長10年(1605)、豊臣秀頼の寄進により、5回目の再建になり、我が国法堂建築の最古のものである。正面28.72m、側面22.80mにして堂々たるものである。
解説
法堂は、無畏堂と称して本来畏れることなく法を説くためのお堂であり、又説法によって衆生が煩悩の苦しみから離れて生き返り蘇生する願も含まれ、講堂的役割を果たしています。また当山は仏殿なきあと、これを兼ねている為本尊を安置して、本堂と称しています。
初建は1391年であり、「法雷堂」と称しました。その後4度の兵火等によって焼失して、現在の建物は天文20年(1551年)の兵火による焼失後、1605年(慶長10年)に徳川家康の命により豊臣秀頼が米1万5千石を寄進して、5度目に再建された建物です。
法堂建築としては最古であり、明治43年に特別保護建造物、昭和4年に旧国宝、昭和25年に文化財保護法によって重要文化財に指定されました。
法堂は基壇「乱積」の上に建てられているので、法堂の姿が一層よくまとめられ、美化され、威厳を増すのに役立っています。高さは22Mとなっております。
構造は桁行7間、梁間6間、単層、1重もこし付,入母屋造り,本瓦葺きの禅宗様建築であり顕著にその様子が至る所にうかがわれます。又、別に桁行4間、梁間1間、1重、切妻造、本瓦葺の玄関廊がついています。
禅宗様の特色
- 宋代中国の標準的様式にならったもので、鎌倉時代初期に禅宗と共に日本へ伝わりました。また、建築物の規模に対して高さも高く造られます。
- 屋根
- 両端でするどく反りあがった軒線です。
- 貫
- 柱を互いに貫でつないで補強方式が基本です。
- 垂木
- 上の屋根軒下は垂木が全体に放射状に配列した扇垂木になっています。
- 天井
- 板を鏡のように平面に並べて張った簡素な天井で「鏡天井」といいます。鎌倉以降禅宗様建築に愛用されました。
- 柱
- 円柱の上下を細くまるめた「ちまき」になっていて礎盤(花崗岩)で支えられています。ギリシャのエンタシスと同様に視覚上の安定感を与える為です。
- 組物(斗きょう)
- ます組をより密接にした組物「詰組」になっています。柱間中間にも組物を配列しています。
天蓋(テンガイ)及び幡(バン)
- 天蓋はもともと屋外で仏の説法が行われた時にもちいた蓋(陽射しや雨を防ぐための傘)から発達したものです。また、幢(幡)は標識なるのぼりばたで、幢ははたぼこ、幡ははたとも言います。幢も幡も蓋とともに仏前の荘厳に用いられ、幡蓋と呼ばれます。仏の教法を幢にたとえて法幢といい、説法することを「法幢をたてる」と言います。
須弥壇(シュミダン)
本尊釈迦如来(シャカニョライ)
像高 110cm
本尊は仏殿に安置しますが、当山の仏殿は応仁の乱で焼失以後はついに再建されることなく今日に至っています。したがって慶長10年(1605)以来法堂と仏殿とを兼ねています。
本像は、脇の迦葉像、阿難像と同じく、鎌倉期彫刻の代表作家、運慶の作と伝えられています。運慶は、父康慶の後をうけ、剛健な写実主義を完成した仏師で、円成寺大日如来、興福寺北円堂の諸尊、東大寺南大門仁王像などがその代表作とされていますが、本像もまた勝れた作例の一つであります。重厚な蓮華台上に結跏跌坐して禅定印を結ぶそのお姿はまことに美しく、また力強さも感じられます。
阿難尊者
阿難尊者木像(アナンソンジャモクゾウ)
像高 126cm
阿難は迦毘羅城の釈迦族の出で、釈尊の従弟でありました。生まれながらにして容姿端正、面は浄満月のごとく、眼は青蓮華のごとく、その身は光浄にして明鏡のごとくなり、とあります。そして十大弟子中、多聞第一といわれました。インドでは一般に学問は書物ではなく、師から弟子へと口伝で伝えるものでありますから、読むとか学ぶというところを「聞く」といいます。だから「多く聞いている」といえば博学多識のことであります。阿難は弟子中一番のインテリであったわけです。
現在のお経も阿難の記憶によってできたとされています。
迦葉尊者
摩訶迦葉尊者木像(マカカショウソンジャモクゾウ)
像高 126cm
摩訶は大の意味。迦葉尊者は、釈迦十大弟子の第一人者として名高く、常に頭陀行(欲を棄てて心身を修練する行)を行じました。がっちりと組み合わせた両手に不屈の願心を示し、口元には強固な意志が、そして、見開いた両眼は教団の上首としてのリーダーシップが見事に表現されています。
蟠龍図
狩野光信筆 径 約9m
禅宗の法堂の天井にはよく龍が画かれています。龍は仏法を守護する空想上の瑞獣でその長を龍王、龍神などと称し、八部衆の一つに数えられています。
慶長十年(1605)相国寺の法堂が五建された際、狩野光信によって画かれた本図は、円相内にその全容をくっきりとえがき出されていて、彩色も実に綺麗に残っています。円相外に雲が画かれていたのですが剥落し、今は僅しか残っていません。日本美術史研究上必要な文献として知られる「本朝画史」の編者、狩野永納(1631~97)は本図を狩野光信(1565~1608)筆としています。無款ではあるがまさしく光信筆であります。
達磨
達磨大師 木像
禅宗の初祖。インドの王族の出身で、釈迦より28代の祖にあたります。梁の普通元年(520)に渡来し、金陵(南京)で梁の武帝と問答し、河南省嵩山少林寺の洞窟で九年面壁をし、二祖慧可に法を伝えました。
臨済・百丈禅師
(左)臨済義玄禅師
達磨大師から数えて11代目の祖師にあたります。 臨済宗の宗祖であり、その言行をまとめたものに『臨済録』がある。
(右)百丈懷海禅師
達磨大師から数えて9代目の祖師にあたります。『百丈清規』により禅宗の規則を制定しました。「一日作さざれば、一日食らわず。」のことばを残したことでも有名です。
大権修利菩薩
大権修利菩薩木像(だいげんしゅりぼさつ) 室町時代
中国の航海守護神で船中の安全を守護する。阿育王山広利寺で諸堂伽藍の守護神としてまつられて以来、禅寺では伽藍守護神として安置されています。
足利義満
衣冠束帯で公家の正式の服装をしており、関白就任の義満34歳の時の姿といわれています。
解体大修理について
普明国師六百年大遠諱の記念事業として近年破損が激しいことから法堂解体大修理を行いました。平成2年1月1日に着工し、平成7年2月10日に上棟式、平成9年3月31日に完工しました。修理は屋根を半解体修理し瓦葺き替え、天井画・須弥壇彫刻剥落防止のため樹脂加工、須弥壇・位牌壇は漆塗り補修を施し、土間敷き瓦修復敷き直し、壁漆喰塗り替え等を施しました。