足利 義満(あしかが よしみつ:1358 - 1408)
室町幕府三代将軍。二代義詮よしあきらの長子。 法名 鹿苑(ロクオン)院殿天山道義大居士。臨済宗相国寺の大檀越(ダイダンオツ)。
貞冶六年/正法二十二年(1367)父の死で家督を譲られ翌年十一歳で征夷代将軍となるが、管領細川頼之に補佐された。父祖の例を超えて内大臣に進むと、摂関家にならい、武家としてはじめて准三宮を与えられ、公武を統一する支配者の道を歩み始め、大守護を弾圧して権力を幕府に集中し、将軍家の地位を高めた。 明徳二年/元中八年(1391)山名氏清を滅ぼし、翌年南北朝の合一を達成した。応永元年(1394)将軍職を辞したのち太政大臣に任じられたが、翌年出家して道有(のち道義)と号したが、なお依然として政務を見た。応永四年(1397)洛北の北山に三層の金箔の舎利殿(金閣)をはじめ多数の殿舎からなる北山第を造営して、ここを政庁に兼ねて公武貴族の社交の場とした(後の鹿苑寺(ロクオンジ))義満は出家の前後より法皇なみの格式で内外の儀式に臨むことが多くなり天皇家との一体化を進めていき、応永八年(1401)明に国書を送って国交を開き、日本国王と認められた。没後、朝廷は太上法皇号を贈ろうとしたが、子義持はこれを固辞した。 自らも熱心な仏道の求道者であった義満は、明徳三年(1392)四季の花や諸家から召し上げた名木で飾られた室町第(花の御所)の東隣に一大禅苑を造営した。これが相国寺(ショウコクジ)である。また春屋妙葩(シュンオクミョウハ)や義堂周信らの禅傑を重用し、禅宗寺院の統制の為、五山制度(五山・十刹・諸山)を整備した。自身も和歌・連歌・書に秀で、猿楽を好んで世阿弥を愛し、中国渡来の文物を愛玩するなど、文化の面でも傑出した指導者であった。