春屋 妙葩(しゅんおく みょうは:1311 - 1388)
甲斐の人。南北朝時代の臨済宗の僧。道号は春屋。別に芥室(カイシツ)、不軽子(フキョウシ)とも号す。諡号(シゴウ)は知覚普明国師。臨済宗相国寺の第二世。(事実上の開山国師)
夢窓疎石のおい。十七才の時夢窓について出家。中国の元から来朝した僧、竺仙梵僊(ジクセンボンセン)と清拙正澄(セイセツショウチョウ)につき大陸禅を学び、ついに貞和元年(1345)夢窓の法を継いだ。正平十二年/延文二年(1357)京都等持寺に住した。翌年天龍寺が焼失したが、その復興を成し遂げた。その後京都臨川寺、阿波光勝院、京都伏見の大光明寺、天龍寺に住したが、正平二十四年/応安二年(1369)南禅寺山門破却事件(旧仏教と禅宗との抗争事件)の時に、管領細川頼之と意見が衝突し、丹後の雲門寺に隠棲した。やがて十年のち細川頼之の失脚により京都に復帰し南禅寺に住し、更に、初代の天下僧録司に任命され禅宗寺院を統括した。その後足利義満の庇護を受け嵯峨の法幢寺(ホウドウジ)を開いた。義満が室町御所の東隣りに坐禅弁道のため、仏道修行の場として相国寺を創建するや、春屋の才能を高く評価していた義満は、相国寺開山第一世として彼を請じたが、春屋の謙譲の徳深く固辞され、やむなく『先師の夢窓疎石を追請(ツイショウ)して開山始祖とするならば、第二世の住持を掌(ツカサド)ります』という春屋の言を受け入れざるをえなかった。義満の仏弟子としての帰依厚く、夢窓派の中心人物として五山・十刹制度などの体制作りに貢献し、五山版の印刷事業をなすなど五山文化の発展に寄与した。