独園 承珠(どくおん じょじゅ)
明治元年(1868年)明治政府によって、神仏分離令が発布されました。それによって仏教排斥の運動がおこり、神仏混淆の立場にあった寺院は被害をうけました。これが世にいう廃仏毀釈です。寺は廃棄され、仏像経巻は焼かれ、壇信徒は仏壇まで焼かれ神道にさせられた藩さえありました。
明治5年、明治政府は教部省を設置し、
(1)敬神愛国の旨を体し、
(2)天理人道を明らかならしめ
(3)皇上を奉戴して朝旨を遵守せしむきこと
という3条の教則を神仏ともに布教綱領としました。これによって、仏教は自由に仏教の宗意を布教することができなくなり、神官に隷属する形となりました。
このとき当時の教部省に厳然として信教の自由を認めるよう抗議したのが独園承珠でした。独園は、寺は壊されても仏法は壊すことははできない、人の建てた寺は人によって壊されてもやむをえぬが、法界本有の仏法は、人がこわすことはできないという信念のもとに廃仏毀釈を防ぐには、何人も壊すことができない確固たる信念の人物を養成することであるという趣旨のもと各宗派に呼びかけて明治5年芝増上寺内に大教院を設立しました。後にここからは多くの人材が輩出しました。
総持寺の諸嶽奕堂と共に教部省へ赴き、仏教の宗意を解き明かすことの許可をもとめましたが、教部省の大輔、宍戸たまきは3条の教則を固守して譲りませんでした。独園は3条の教則が仏教の宗旨ではなく宗祖が立した教義が宗旨であり、もし仏教が宗旨を説くことができないのなら、神官も神道をとくことは許されないであろうと訴えました。ほとんど連日のように説いてゆずらず、とうとう明治6年教部省は信教の自由を認めたのでした。
独園は、政府の圧力に屈せず、不退転の決意で仏教の教義を説くことを守りました。仏教各宗派との連携、仏教を担う人材の育成、政府に対する抗議行動、そしてけっして退かない交渉力は、独園の仏法護法の烈々たる熱意を語っています。
独園は備前岡山の出身で、おじさんが禅僧であったため、その導きで8歳で出家、13歳で得度しました。18歳で豊後の儒者帆足万里の門に入り、6年学びました。23歳で京都に上り相国寺僧堂で「鬼大拙」の異名のあった大拙承演につきました。大拙に侍すること十年余りで印許を得ました。この間の修行ぶりはすざまじく、僧堂の周りのカラタチの生垣の刈り込まれた上で坐禅したといわれています。
安政2年37歳で相国寺山内の心華院(大光明寺)住職となました。相国寺住持となったのは以外に遅く明治3年52歳のときでした。
荒れていた大通院(僧堂)を復興し、由緒寺院豊光寺を復興してここを隠居所としました。
明治17年各宗諸氏と謀り京都に共済金を設け貧民の救済と子弟の教育にあたりました。また広く山門を開いて求道の人々に参禅を機会をあたえました。
また、財政の危機に瀕した相国寺を立て直すために伊藤若冲の描いた花鳥画30幅を宮内省に献じて金壱万円の下賜金を得て相国寺の維持金としました。それを資金に境内地一万八千坪を買い戻しました。伊藤若冲の不朽の名作は国の内外に流出するという難を逃れ、宮中に宝蔵されています。独園の大英断でした。またキリスト教を創立の精神とする同志社大学に土地を貸すことを決めたのも独園でした。
明治28年7月3日、本宗7派共同で日清戦争戦没者追悼会を催し導師を務め、法会を終わり、豊光寺に帰ってから後、発病しました。療養に努めましたが、明治28年8月10日午前7時独園は自ら起きて筆と紙を求め、偈を書きました。
初世と末期と一等同商量
誰か知らん期の苦味
閻王と共に商量するに足らん
となし筆を投じて示寂しました。法寿77歳でした。
続禅林僧宝伝によれば独園は容貌温和、喜怒をみせず、寛大、食に好悪を選ばず、衣服も繭物をさけ、麻布を召さるるを常としました。
明治政府が称姓の制をしいたとき、僧侶も姓をなのるようになり、各宗派の管長は華族とする論議が起こりましたが、独園はこれに反対しました。
「華族でなければ威厳が保たれないというのなら、もし管長を退き華族を奪われた時、威厳を失墜することになる。また平民であるからといって、どうして屈辱されねばならないのか。」
と論じました。
十余年におよぶ大拙のもとでの修行中、雪の降る夜、堂外で夜座をし、かたわらに持鉢とおいて雪をうけ、積もればあけ、あけてはうけて深更にいたりました。
「もし一大事を明めることができなければ、あえて退転せず。」
と心に誓いました。決死不退転の求道の決意でした。
また明治20年、古希の祝いとして、利休7種茶碗の中の銘「臨済」(初代長次郎作)赤茶碗を真清水蔵六に写させて、「萬年楽」と直書して記念とした風流な一面もありました。現在萬年楽茶碗は大光明寺蔵です。これと同じく、「萬」「年」「楽」とひとつひとつ書かれた三つ組み盃は豊光寺に残っています。明治22年5月方丈の開設にあたり、この盃を使い始めたと箱の裏に書いてあります。
門下に寛量思休、東嶽承サ、瑞雲義寛、盤竜禅礎等があり、参禅の居士に伊達千広、鳥居得庵、桐野利秋、山岡鉄舟等があります。
著書 近世禅林僧宝伝三巻 退耕録三巻